駿台模試の国語

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職場近くで食べたチーズのパスタ。美味かった。

中二の終わりくらいに人生で初めて学習塾に通い始めると、すぐに駿台模試を受けさせられた。ちょっと緊張しながら会場の高校に行って、試験時間長いなあなどと思った記憶がある。でも数学とか全然わからなくて。やっぱり中一から早稲アカに通ってるやつとかすごいなとか思ったりもしたんだけど、まあ別に俺そんなに熱意とかないしそんなに勉強もしてないしなとあんまり深く考えずに野球ばかりやってその模試のことはすぐに忘れてしまった。

一ヶ月くらい経ってその模試が返却された。で、びっくり。めちゃめちゃ国語の点数が良かった(全国50番とかだった。母数は忘れたけど)。野球の才能が全くないことは痛いほどわかっていたから、安易な俺は勉強の方に舵を切ろうと思った。受験勉強なんて全く考えてもいないのに、毎日勉強ばかりしている奴より俺の方ができるじゃん、みたいな。

まあそれはともかくとして、その時俺は自分のことを国語の天才だと思った。国語の才能に満ち溢れていると思った。文章を書くのが誰よりも得意で、将来はそれで食っていくんだろうなと。坂本勇人にはなれなそうだし、まあ次点でそれもありか、みたいなことをうすらぼんやりと考えた。

で、13年くらいそれを引きずっていたんだけど、社会人になって今俺はそんなに文章を書けないぞと痛感している。そうした絶望を感じてもおかしくないタイミングは幾度もあったんだけど(大学受験の模試で偏差値35とかだったり、まあそんなこと)、なんかここ数ヶ月でその思いを強くしている。うまくいえないんだけど、俺は適切な言葉を適切なタイミングで使うことができない。「東」を伝えるために、「北海道が上の方に位置する地図の右の方」みたいなまわりくどい言い方しかできない。

だから職場でチャットとかをするのが苦手。伝達すべき情報をまとめ上げることにものすごくストレスを感じてしまう。本当はただの一言で伝えられることを、300文字くらいダラダラと論点のわからない文章を書きまくって曖昧な伝達を済ませる、みたいなコミュニケーションになってしまう。そのくせ語尾とか細かい言い回しには気を配ってしまうから、無駄に時間と体力を使う。伝わらなくてもいいから、文章が下手だとは思われたくない。名文家自認が止まらない。

日記って感じでは無くなってしまったので、雑文置き場に投げておく。けど眠いのでここでやめ。続きは明日書くかもしれない。

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ここ数年、構成なるものにずっととらわれている。論文には論文の、映画には映画の、短編小説には短編小説のベーシックな構成原理というものがあって、それは各形態ごとに異なりながらどこかで共通しているような何かで、その定義を述べることはできないにせよ、経験的に僕はかなりの程度正確にその有無を把握することができる。少なくとも自分ではそう思っている。 ただし、他人の制作物にあれこれ文句を垂れることはできても、自分がそれを実践しようとするのは話が別だ。むしろ把握してしまうという事実が、僕を制作から遠ざけてしまうことが多々ある。端的に言えば、自分が書いているものに、僕はその原理の不在を見出してしまうのである。 仕事で提案書を書かなければならなくなり、慣れないパワーポイントを使いながら、僕は文章を書いたり写真を貼ったり図形を配置したりしている。しかしその実践の途上で、僕は今目の前にあるそれが提案書の構成から逸脱していることに気がつき、手を動かすことができなくなってしまう。 これは論文なり脚本を書いている時にもしばしば起こる現象で、かつて僕はその原因を「構成しか考えられなくなる状態」に見出した。構成を意識しすぎるあまり、そこからはみ出す饒舌を許すことができないのだ。悪しき完璧主義者がまたしても顔を出すのである。 東浩紀やチェーホフを読んだりすると、自分の構成能力の低さに辟易として、ほとんど筆を投げ出してしまう。彼らは構成が文体に先んずるような書き手である。 一方村上春樹や蓮實重彦を読むと、むくむくと書きたいという欲望が迫り上がってくる。僕にとって彼らは、文体が先にありその後に構成がくるタイプの書き手である。過剰な比喩であったり接続詞を多用する長大なセンテンスであったり内実は様々だが、そこに書かれている文章はあくまで文体におけるリズムを統一するためになされた技巧である。 僕は明確に後者の側に属する人間であるような気がしている。しかしそのことをわかっているくせに、僕には構成を先に決めて書き出すことが書き手の責務であるかのように思えてしまうのである。結果として冗長さは失われ、僕はほとんど文章を書くことができなくなる。というよりもむしろ、全く頭が働かなくなる。 パワポというものは、ほとんど構成がそのまま形になったような表現形態である。当たり前だ。要点をまとめることがスライドなるものの主眼であるからだ。そこに文体なるものは必要とされないばかりか、過剰な比喩など忌避されて然るべきだという風潮は根強い。文体上の挑戦など、ただの格好つけとしてしか認められない。あくまで求められるのは骨組みである。 しかし、僕にとって文体というものは格好つけなどでは到底ない。むしろ僕が冗長に文章を綴るのは、端的にそうとしか書けないからなのである。例えば今日の日記で僕がお堅い文体を使っているのも、ただこうして書くのが書きやすいからなのだ。何らかのリズムに身を任せて思わぬところに文章を運んでいくこと——それだけが僕の得意なことである。 ならば僕はもう、そうした自然発生的な文体の要請に、素直に従っていくしかないのだと思う。それこそ制度として強権的に変じた構成なるものの抑圧と格闘する唯一の道である。 蓮實重彦はどんなスライドを作るのか。そんなことを考えたりするのも面白い。 こんなふうに書くのも久しぶりだけれど、楽しい。賢そうなふりをする文体である。実際は適当に書き殴っただけ。ぐちゃぐちゃです。文章も僕も全部。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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