器具の(厳密に)正しい使い方

article

もずくスープを飲もうと思い、先日買った電気ケトルでお湯を沸かす。

こんなところまで金かけても仕方ねえよな、と思ってAmazonで安そうなものを適当に選んだ。値段相応の軽さというか薄っぺらさがあるし、前に使っていたT-falのやつと比べると沸くまでに時間がかかるのだが、最低限の機能は果たしているので問題はない。

とはいえこの商品を選んだ理由はあって、それは注ぎ口が細いこと。僕がお湯を沸かす理由の大半はコーヒーを淹れることだが、一般的なケトルからドボドボと注ぐのは品がないし、新しくドリップポットを調達するのも勿体無い(学生時代は持っていたが、おそらく前の住居に置いてきた)。それに電気ケトルからわざわざもう一つの器具を通過するのは洗練された動きとは言い難い。これならば沸かして即ドリッパーに注ぐことができるから、というわけだ。

使ってみると実際便利で、生活の中から一つの動作が消えるだけで、一日が少し長くなったような気がして嬉しい。ミニマリストは、こうした感覚に喜びを見出しているのだろうか。

しかし購入時に使い方を具体的に想像してしまったせいか、コーヒーを淹れる以外の用途で使おうとすると、どこか違和感というか、「間違っている」という感覚を強く覚えてしまう。たとえていうなら、ドライヤーで暖をとっているような感じ。このケトルは、もずくスープのための器具ではない。

そんなことを思ったが、でもお湯を沸かすにはこれを用いるのが簡便だから、結局この湯沸かし機を用いる。generalとspecialの違いというのは、生活器具の中にも確かにあるのだなあ、と考えたりする。じゃあどっちを買うべきなんだと聞かれても困ってしまうのだが。


コーヒー周りの器具の名前がどうも覚えられず、いちいち調べていた。ここ数年、コーヒーサーバー、と聞いてもそれが何なのか即座にはわからない。

うっかりキンミヤ焼酎を買ってしまい、シークワーサーサワーを作って飲んでしまった。昔たまに作っていたけれど、やっぱり美味しい。

article
ランダム記事
15時くらいから久々に部屋で映画を見る。 ケリー・ライカートの『ショーイング・アップ』。個展を行う彫刻家の生活をさらりと描いた映画だが、あらゆるショットが生き生きとしている。 主演のミシェル・ウィリアムズのアトリエは雑多なものが(逆説的な言い方になるが)整然と並んでいて清々しく、彼女が働くアート・カレッジは優しい光で満ち溢れていて美しい。特にそのカレッジの屋外で、ダンスの講義を受けている数人が緩やかな運動に身を任せる瞬間の多幸感。 何よりも素晴らしいのはそのラストだ。傷を負って飛ぶことのできなくなった鳩が、ギャラリーの狭い空間を縦横無尽に飛び回る。そして聖愚者めいた兄が黙ってその鳩を外へと解き放つ。こんな奇跡がそこにあれば、別に和解の言葉を口にしなくても、人は再び並んで歩かざるを得ないだろう。 素晴らしい映画だったのだが、途中でガッツリと寝た。15時に視聴を開始して、見終えたのが19時くらい。映画は2時間弱だから、2倍の時間を使って贅沢にこの映画を見たことになる。 昼食後から夕食前までの時間は、これくらいの緩やかさでしか生活できないような感じがある。どんなに気を詰めてパソコンの画面を睨みつけていようと、結局午後という時間は、芝生に寝っ転がってコーヒーでも呑みながらゆっくりと読書をして、太陽を瞼の裏に感じながら午睡にふけるくらいのことしかできないのだろうと思う。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

コメント

タイトルとURLをコピーしました