転換期

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また日記を二日ばかりサボってしまった。朝に書くことを習慣にすると、なぜだか平日にしか書くことができない。

というよりも、日記を書くことに飽きてしまったのかもしれない。やはり日記は雑記にならざるをえず、何かテーマというか毎日続くものとしての統一が欲しい。

というわけで、これからは前夜に見た映画についてあれこれ書いてみようと思う。部屋の視聴環境がそれほど悪くないこと気がついた、という理由もある。

しかしまあ、毎日映画をみるのも難しそうな気がするので、ただの雑記になる日もしばしばあるはず。こういうのは緩やかな規則として自分の生活の中に取り込むのが続ける秘訣だと信じているから、まあこんなものでいいだろう。

とはいえサムネイルも用意していないから、今日は中途半端な文章で終わり。面白くないね。

ちなみに昨日見た映画は坂元裕二が脚本を書いたNetflixオリジナルの『クレイジー・クルーズ』と、ルネ・クレールの『巴里祭』。

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その言い回しを使いたくがないために異なる語彙を探し、ぽっかりと空いたその間隙に種々の言葉を当てはめてはみるものの結局適当な言葉が見つかることもなく、不快感だけを覚えたまま疲れ切ってしまうことがある。 例えば「変数」という言い回し。それはおそらくただ「未確定であること」を名指すために文脈の中に差し込まれているのであろうが、そこに含意される浅はかな数学ないし数字への信奉は、その意味が極めて単純な語彙で説明されるものであるがゆえに、ひどく陳腐なはりぼての様相を呈しているように思われる。 あるいは「理論的には」なる形容。そこに体系だった「理論」などいささかも垣間見えることはなく、ただ2+2程度の計算によって一意に定まる解答のことを指してその言葉が使われているのを目にすると、高々数十年前に「理論以後」との言葉を掲げて人口に膾炙した「実証的」なるものの成れの果てが今まさに眼前にあることに気が付き屈折した高揚を覚えることになる。 しかしそうした語彙をどれほど憎んでいようと、結局僕が放置した言葉の空白は適当な言葉で埋められることもなく、「理論的には」とできうる限り小さく呟いてお茶を濁すことしかできない。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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