緑色の(嫌な)夢

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今年に入ってから嫌な夢ばかり見ると同僚に言ったところ、最近見た夢の話をしてくれた。

会社の人たちでドライブに行く夢。最初は僕が運転しているのだが、気がつくと社長が運転席に座っている。なぜだか全員緑色の服を着ているのだという。

「緑色の服」という飛び跳ね方が面白い。ドライブといったら結局は「どこに行ったか」がその話題の中心になってくるはずなのに、それが脇に置かれて「服の色」というおよそドライブとは無関係な関心が設定される。連想をいくら続けても決して到達し得ないイメージにたどり着いてしまうその夢のありようは、まさしく夢というほかない。

嫌な夢を見るくせにそれを記憶できない僕からすると、そうした鮮明なイメージを保持しているのはなんて幸せなのだろうと思ってしまう。夢の中ですら、ある種の筋道がなければそのほとんどを忘却してしまうのは著しい機会損失であると感じる。

あ、嫌な夢という話だったな。嫌な夢。

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昨晩まで実家にいて、夜の電車に乗ってアパートに帰る。色々と食べ物とかバスタオルとかを頂戴して、しばらくお金が浮くなと思う。 家族の中では、僕が一番コーヒーを飲む。母親はそれほどコーヒーが好きというわけではないのだが、実家近くにできた焙煎所が気に入っているらしく、たびたび結構な量の豆を買っては飲みきれないからと僕に譲ってくれる。 しかし今回もらったコーヒーは特別なものだ。 ゲイシャ。 芸者とは関係なく名付けられたというこの豆は、コーヒーをガブガブ飲むくせにその種類や味についてあまり詳しくない僕でも知っている。というのもこのゲイシャなるコーヒー、端的に言ってバカ高いのである。喫茶店のメニューの端っこで、他の豆とは格が違うとばかりにキラキラとした枠に囲まれ、なんだかリッチな太字フォントで書かれたその一杯は、1500円などというおよそノンアルコール飲料とは思えない値段で売りに出されている。 母親はゲイシャをついうっかり買ってしまったのだという。焙煎所で試飲した三種のコーヒーの中で一番美味しいと思ったものを、ほとんどその名前も見ずに選択。いっぱい買うとお得だからということで300gを選択した母親は、レジで7000円が提示された瞬間自分の頭がおかしくなった気がしたという。店内は混雑していたし、豆はすでに挽かれてしまっていたから、もう後戻りはできずそのままコーヒーを受け取って店を出たというわけだ。 そのゲイシャを、家族でそろって飲んでみよう。というわけで三が日の中日に、いつもの三倍くらいの時間をかけて丁寧にコーヒーを淹れる。普段は食器棚の奥にしまいこまれたソーサーとカップを取り出し、沸いたお湯を注いで温める。ちょっとぬるくなったそのお湯を使って、ポットからか細い線でお湯を注ぐ。せっかくのゲイシャを「なんか薄いね」などと形容することは断じて許されないので、こまめにその味を確認して、ベストな濃さを追求していく。 ストイックな作業だ。しかし丁寧に入れたそのコーヒーも、僕たちの口内コンディションが最悪では意味がない。そこで数時間前に歯を磨いたはずなのに、再度歯を磨いて水をがぶがぶと飲み、舌を清潔にした上でようやく湯気立ち上るゲイシャを口に注ぎ入れる。 美味しい。浅煎りのフレッシュな酸味が口内を満たし、それが飲み込まれた瞬間豆の柔らかな甘みが立ち上る。 高いものを飲むと、なんだか語彙が膨らんだような錯覚を抱くが、おそらくそれはこの味を的確に表現しなければならないという強迫観念のせいなのだろう。しかしともかく、これは美味しい。家で淹れても一杯4〜500円くらいはするだろうこのコーヒーに、その値打ちがあるかどうかはわからないが、まあ美味しい。こんなものを飲むのはこれが最後かもしれないから、その味と香りを記憶すべく、家族全員であれこれ言葉を尽くしてみたりもする。 そのゲイシャを、三分の一ばかりもらって帰ってきた。かなりありがたい。 正月ももう終わり。良い正月だったと思う。しかしその帰りに一人夜道を歩いていると、社会で成功しているとは到底思えない大の大人が、食べ物をもらったり家族でトランプをしたりするのは本当に正しいのだろうかと考えてしまう。そんな風にひねくれてしまうのも、自分が知らず知らずのうちに競争社会の只中に放り込まれてしまっているからだと思うと、なんともやるせない気分になる。 その競争を勝ち上がった先には、ゲイシャ(あるいは芸者)が待っているのかしら。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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