神田でジンギスカンを食べる

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仕事終わりに寮に住んでいた頃の後輩とお酒を飲んだ。なんとなく神田で、ジンギスカンのお店に入る。

やはり生活の中に談話室が欲しいと思う。たまたま居合わせた友人と喋ったり、自分では絶対に選ばない漫画を読んだりする緩やかな時間が恋しい。それはかつての生活が既に思い出となったから覚える感慨なのかもしれないけれど、やはりその時間を共に過ごした人と再会すると、それだけではないと思う。

そういえば寮のイベントでジンギスカンを食べる会があったのを思い出した。100人くらいの人が集まっていた気がする。火力が弱くてなかなか肉が焼けず、そのくせ腹をすかせた若者が集まっているから、十分で一切れくらいしか食べられなかった。氷水の入ったゴミ箱みたいな大きな水色の入れ物に、ビールやらほろ酔いやらコーラやらの飲み物が浮かんでいて、僕たちはガヤガヤと無意味な会話を無分別に繰り返し続ける。なつかしい。

学生の人間関係は変転を繰り返すから、部外者の僕が記憶の中で固定した相関図はもう現実のものではないのだろう。

いろんな話を聞いた。みんなそれぞれの道で頑張っている。僕も頑張れねばと思うが、仲間が欲しい。偶然生涯の相棒を見つけるようなイベントは、この先僕の身に起こるのだろうか。

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わたしが「戦略」とよぶのは、意志と権力の主体(所有者、企業、都市、学術制度など)が周囲の「環境」から身をひきはなし、独立を保ってはじめて可能になるような力関係の計算のことである。こうした戦略は、おのれに固有のものとして境界線をひけるような一定の場所を前提としており、それゆえ、はっきりと敵とわかっているもの(競争相手、敵方、客、研究の「目標」ないし「対象」)にたいするさまざまな関係を管理できるような場所を前提としている。 (中略) これにたいしてわたしが「戦術」とよぶのは、これといってなにか自分に固有のものがあるわけでもなく、したがって相手の全体を見おさめ、自分と区別できるような境界線があるわけでもないのに、計算をはかることである。戦術にそなわる場は他者の場でしかないのだ。 ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』、筑摩書房、2021年、32頁。 職場で「戦略」とは何かと聞かれる機会があり、ふと読みかけになっているミシェル・ド・セルトーの『日常的実践のポイエティーク』の一節を連想したのだが、即座に引用できるほどには記憶に定着しておらず、またいかにも「他者の場」たる「職場」という場において、思想書の引用をはかることほど「なんとかやっていく」ための「戦術」からかけ離れた営為もあるまいと思い直し抑制した感情をここに吐露しておく。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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