タルコフスキーにおける空間性——心理的二重性?——

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これは僕が大学3回生の頃、研究室に配属されてはじめてゼミ発表をしたときの資料。タルコフスキーが対象。

これは本当に破綻としか言いようがなくて、そのくせ文体だけは格好つけているので限りなく恥部晒しなのだけれど、面白いから公開してみます。

↓卒論とかについて。

卒論とか諸々の話。タルコフスキーについて。
8月中頃からずっと修正し続けていた論文を書き終えた。卒論を改稿したもので、査読に回したのが6月末。卒論を書いていたのが去年で、その元となる発表をゼミでしたのが2020年の夏前だ。つまり僕は3年に渡って、同じ作家の同じ作品について考えていたこ...

空間性ってほんと何。ちょっと読んでられん。苦し紛れにフロレンスキイを引っ張ってきたんだなあ。まあ懐かしい。

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正月だからと特別な理由を拵えるまでなく、おそらくはただ休日であるからという理由で朝寝坊をしてしまう。もしかすると昨晩飲んだヤクルト1000が効いているのかもしれないが、別に統計的なデータなどとっていないので、その確かな理由など探りようもない。 この休みの間に書きたいものがたくさんあるので、昼過ぎになったら家を出て実家近くのタリーズで作業をしようと思う。そんなことを考えながら実家のソファーでゆっくりと食休みをしていると、妹が大富豪をやりたいという。前日に祖母宅でやったのがどうやら楽しかったらしい。 それが案外盛り上がってしまい、結局家を出るのは夕方になってしまう。まあ正月だからいいかとも思うが、この言い訳は一般に言われる「正月」の範囲を大きく飛び越えてなお言い訳として機能しうることを経験的に知っているから、ここらでやめにしようと誓う。 駅前のタリーズに向かう。その道すがら、傾斜のきつい坂道の前を通りかかると、まだ今年一度も開いてはいないだろう美容院の前に5kgの白米が落ちている。「置いている」のではなく「落ちている」と言いたくなるような無造作な配置に、この背後にはどのような理由が隠されているのかを知りたいと思うが、そんなことわかるよしもない。数粒ならともかく、一袋ごと落として気づかないことがあろうか。しかしそれなりに人通りのある道の端に生米を置く理由など思い至らない。 米を落とす。 これまで何度となく食事中に炊き立ての白米を箸や口の隙間から落としてきたのだが、それは常に「ご飯を落とす」とのみ呼ばれるような事態で、「米を落とす」という単語の結合にはついぞ出会ったことがないような気がする。おそらく新年だからと理由づける必要もなく、これは2024年に起こる物事の中でも鮮明な記憶としてその先の年月に持ち越されるものであることを確信する。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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