鰻に近づいた夜

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仕事が終わってもムカムカがどうにも収まらず、心穏やかでないまま帰路に着く。

この帰り道に読もうと楽しみにしていた『違国日記』の四巻を開く気分にもなれず、だらだらとスマホを眺めて電車に乗っていると、ちょうど閉まったばかりのドア上に最寄駅の名前が見える。これはどっちだ、と迷う間も無くその名前は続く駅の名前へと変わり、僕は電車を乗り過ごしたのであった。

間違った電車に乗ってしまうことは多々あれど、乗り過ごすことなんてほとんどなかったからひどく落ち込む。いっそのこと次の駅で晩飯でも食べてお酒でも飲んでやろうかと思うが、そんなささやかな決意を決め込むテンションにもなれず、早く家に帰りたい思いだけが湧き上がってくるので引き返すことにする。

最寄駅に着き、どうやってこの穏やかならざる心を癒そうかと考えていると、駅前の鰻屋が目に入る。夕飯に三千円くらい使ってしまえば全部がどうでも良くなるかしらと妄想し、その暖簾前までゆっくりと歩くが、結局その勇気も出せずに帰路につき、適当にパスタを作ってお腹を満たす。

気分が上がらない時に何をすれば良いのかわからない。ただ、ここ数年で一番鰻に近づいた夜だった。

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わたしが「戦略」とよぶのは、意志と権力の主体(所有者、企業、都市、学術制度など)が周囲の「環境」から身をひきはなし、独立を保ってはじめて可能になるような力関係の計算のことである。こうした戦略は、おのれに固有のものとして境界線をひけるような一定の場所を前提としており、それゆえ、はっきりと敵とわかっているもの(競争相手、敵方、客、研究の「目標」ないし「対象」)にたいするさまざまな関係を管理できるような場所を前提としている。 (中略) これにたいしてわたしが「戦術」とよぶのは、これといってなにか自分に固有のものがあるわけでもなく、したがって相手の全体を見おさめ、自分と区別できるような境界線があるわけでもないのに、計算をはかることである。戦術にそなわる場は他者の場でしかないのだ。 ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』、筑摩書房、2021年、32頁。 職場で「戦略」とは何かと聞かれる機会があり、ふと読みかけになっているミシェル・ド・セルトーの『日常的実践のポイエティーク』の一節を連想したのだが、即座に引用できるほどには記憶に定着しておらず、またいかにも「他者の場」たる「職場」という場において、思想書の引用をはかることほど「なんとかやっていく」ための「戦術」からかけ離れた営為もあるまいと思い直し抑制した感情をここに吐露しておく。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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