『アンダーグラウンド』エミール・クストリッツァ、あらすじ、感想

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いつか見たいと思いながら、上映時間が3時間近いことを理由に先延ばしにしていた本作を鑑賞。

凄まじい映画だった。「こういう場面を映すことはできないから編集とかで工夫しよう」と思ってしかるべきショットが、全部画面に映ってしまっている。確かにこれは人生が少し変わる。寝つきがだいぶ悪くなった。

作品情報

1995年製作。第48回カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞。

あらすじ

第二次世界大戦中のベオグラード。共産党員としてナチスの侵攻に抵抗を続けていたマルコは、友人のクロらを自宅の地下に匿い、秘密裏に武器製造を行う。その活躍もあって終戦後政府の中枢として富と名誉を築き上げたマルコだったが、戦争が終わった事実を地下で暮らすクロらには伝えなかった。20年もの時が経ち、一つの街ともいうべき様相を呈した地下では、地上で戦うことを自らの使命とみなすクロの姿があった……

感想

喜劇的な、あまりに喜劇的な

こんな物語であるのに、登場人物が皆、ちょっとやりすぎなほどチャーミングだ。戦争に始まり戦争に終わるこの映画が、凄惨な歴史を描いていることはいうまでもないのだけれど、とにかく出てくる人たちが全員面白い。感情が全て行動に出るような人物たちで、ほとんど戯画化されたある意味でアニメっぽいキャラクターなのだけれど、その嘘くささが、どうしようもない深刻さをさらに煽り立てているような感じがある。

うまく言えないのだけれど、この映画は悲惨な中でもコミカルにみたいな感じでも、 人生は近くで見ると悲劇だが遠くから見れば喜劇であるみたいなチャップリンの格言みたいな感じでもない。冒頭から耳を刺激する激しいブラスバンド演奏と、狂乱ともいうべき過剰な演技からも示唆される通り本作は純度100%の喜劇であると思う。

生き生きしすぎな動物たち

その中でも印象的だったのが、本作で頻繁に登場する動物たちの演技である。

動物園が爆撃される序盤、檻から飛び出した動物たちは、荒廃する街の中を自由気ままに闊歩する。

動物を映画に登場させることの困難さは、映画撮影の内幕を描いたトリュフォーの傑作『映画に愛をこめて アメリカの夜』で示されている通り、もちろんその動物たちが演出の意図通りに動かないという単純な事実に起因したものだ。

しかし本作において、自由気ままに闊歩する動物たちは、むしろ自由の欠如ともいうべき所作を示している。それは自由という演出の到達点であり、周到な意図のもと動き回るサーカスであるのだ。

たとえば窓際に置いた靴を、象が鼻先で持ち去っていく場面。あるいはチンパンジーが戦車に乗り込む瞬間。どうしてこんなことが可能なのか(合成じゃないよね?)。もうただ驚くことしかできない。

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つい先日の日記で同じ曲しか聞かない月間にすると誓ったのだが、4回くらい連続で聞いているとやはりちょっと別の曲が聴きたくなってしまう。 こうした飽きっぽいところが僕の弱点で、そのせいで何につけ能力を身につけることができないことは薄々感じている。だけどこの誓いはそれほど無理をするものではないと思うので、この制限はやめにしようと思う。しかし単にやめただけだと悔しいし、何より 生活を少しずつ変えていかなければならないと思い、今月は同じ曲しか聞かない月間にすることにした。 という目的にも反するから、縛りを緩くすることで折り合いをつけようと考えた。 聞いていたのはミッドナイト・バス。ならばこの一ヶ月はミッドナイトという言葉が入った曲を聞こうと考え、spotifyで検索してみると、最初に出てくるのはTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTのミッドナイト・クラクション・ベイビー。 僕はそれほどミッシェルを聞いたりしないので、聞いてみるとかなり新鮮な気持ち。頭の中を涼しい風が通り抜けていく。 ここは無数の社会人が歩く朝の浜松町。スッキリした頭の人間なんてほとんどいないはずだから、今朝の僕は最も頭の冴えたロックンローラーだったに違いない。重い足取りの大人たちを、僕は軽やかに抜き去っていく。 しかしよくよく考えると、ミッシェルを聞いて爽快感を得る、というのは少しばかり世間の感覚と異なる気がする。頭とか振りたくなるというのならわかるのだけど、今朝の感覚としては風呂上がりみたいな感じ。頭の中身がごそっと入れ替わったような。 その理由を考えていると、しばらく経ってその答えらしきものを理解した。 どうやら僕は「ととのって」いたらしい。 サウナと水風呂の往復。巷では大いに流行っている嗜好の一つらしいが、いまいち乗れていない。やってみたことはあるし、確かにこれが合法麻薬だと言われるわけもわかった気がするのだけど、灼熱密室の苦しさを上書きしてくれるほどでもない。 まあ正直なところ僕がそんなふうに感じているのも、サウナとかゴルフとかそういう「いわゆる」っぽい趣味に手を出すのがなんとなく癪だ、という程度の理由にすぎない。単に僕がひねくれいているだけ。サウナに入って「ととのう」みたいなことを言いたくないのだ。ちゃんと流行りのものを受け入れて、型通りの反応をするのが恥ずかしくて仕方がない。くだらない自意識の発露。 まあそれはともかくとして、ラッキーオールドサンとミッシェルの間には確かに限りなく深い溝がある(ここでマリアナ海溝くらい深い、とか書いてしまったら僕の嫌う型通りの反応になってしまう。クリシェは断固として拒絶すべき)。サウナと水風呂ほどの差ではないかもしれないが、サウナの後に33度くらいのお湯に浸かる、くらいの差はあると思う。どっちがどっちかは多分明白なので書かない。 もしも両極端の間で往復運動することがととのうために必要な条件なのだとしたら、僕は意図せずに疲れ果てた脳と身体からねばねばした膿を出していたのかもしれない。「ととのう」ために必ずしもサウナを用いる必要はないのだ。知らんけど。 朝のオフィス街で、真夜中のサウナに入る。 それほど良くもない言葉の響き。まあ別にいいか。 出社したら即カルピスとかをごくごく飲む、みたいな光景を見かけたら、「こいつは仕事前にととのってきたんだな」と認識してくれて構わない。みんなで真夜中に一緒にととのいましょう。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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