気まぐれな睡魔を飼い慣らす

article

夜、國分功一郎の『中動態の世界』を読む。僕たちが当たり前のものとしている「意志」という概念を疑うところから始まり、その曖昧さが文法の規則——能動態と受動態——に端を発するものではないかとの問いを投げかける。かつて存在した中動態という態にこの問題を解決するための鍵を見出していくという本だ。

平易な文章で、好奇心をこれでもかと刺激する切り口からものすごく一般的な概念を考えていくのが面白い。しかしこの本は見かけのとっつきやすさに反して、論じられている内容はかなり複雑だと思う。例えば「言語が思考を規定する」のではなく、「言語は思考の可能性を規定する」という指摘。ゆえに言語中心主義(?)から離れて再び現実の世界を思考の場として設定することが可能となるわけだが、ここでは論がかなり抽象的な次元に入り込んでいる。

哲学的な思考で現実の問題(アルコール依存症とか)を考えていく本だと思って読んでいくと、途中で何を言っているのかわからなくなってしまうような本だ。まあものすごく面白い本であるわけだが。


読書をしていると心地よい睡魔が襲ってきて、そのまま勢いよくベッドに倒れ込んで電気を消した瞬間、その睡魔がどこかへと去ってしまい、じりじりと眠れない夜を過ごしてしまう——完全に覚醒したまま暗闇で色々な妄想をしていると、「眠れない時に寝ようとしないことが大切なんですよ」とかつてテレビで睡眠学者と名乗る誰かが言っていたことを思い出し、諦めて電気をつけて再び本を読む。そうこうしていると、そんなに長い時間が立たずとも睡魔は再び襲ってくるものらしい。

article
ランダム記事
23時すぎ。昨日から読み始めたアンドレイ・クルコフの『ペンギンの憂鬱』を読んでいると、いつも常備している2ℓの水がなくなってしまう。 口が寂しいと作業をしたり本を読んだりしてもあまり集中できない性質なので、まだ眠くないこの夜を引き延ばすためにも是非とも水が欲しい。今日はリモートだったので全く外に出ていないし、ちょっとは散歩をした方が良いような気もする。 ただシャワーも浴びてガッツリ寝巻きの状態。わざわざ外出するのは億劫だし、夜に追加の花粉を浴びるのはあまり好ましくない。 どうしようかとしばらく迷っていると、いつの間にか本には集中できていない。変にスマホを触りだしてしまって、適当な人物のWikipediaを読み流している。このまま大久保利通の人物評価を読んでも仕方がないだろうと思い、ようやく重い腰を上げて部屋を出る。 今日は大学の卒業式だったらしい。僕が京都を去って、ちょうど一年が経つ。幸運にも学年を問わずに友人を持てたおかげか、これからも京都に居座ってくれる人がまだ残っているわけだが、ただその数は減っていく一方だ。 ひとりコンビニへと向かう夜道を歩きながら、誰かの買い物に付き合ってガヤガヤと丸太町通を練り歩く集団のことを思い浮かべたりした。 体調もだいぶ戻ってきた。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

コメント

タイトルとURLをコピーしました