数年ぶりに、柴田さん責任編集のMONKEYを買う。

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仕事終わりに東京駅の丸善に寄る。寮で丁寧に読み進めていた違国日記が完結したらしく、今は手元にないから買おうと思う。けれども海外文学の棚をぶらついていると、短編が読みたくなって、アリ・スミスの短編集を手に取る。

短編を読みたい気分になったら、ふとMONKEYの短編特集が欲しくなる。『アホウドリの迷信』が入っている号があったはず。でかい本屋で、まあどの本屋でも売っている本を買うのも微妙だから、雑誌のバックナンバーを買うのがいいかなと思った。多分地元の本屋にも売っているけど。

帰りの電車で、短編を二本読んだ。若い頃出会った赤いスーツケースを持った女を探す話と、アメリカの男子高校生がチアリーダーのコスプレをする話。前者は語りが重層化していて、いかにも短編といった感じ。後者は息子にコスプレを勧める父親のキャラクターが好き。どちらも簡単には要約できないし、したところで面白さが全く伝わらないところが良い。

ところでMONKEYには苦い思い出がある。学生時代、僕は二年間にわたってこの雑誌を購読していた。柴田元幸のファンだったし、あの少し硬い紙質や、軽薄そうで軽薄でないイラストが好きだった。文庫本ばかり買っていた僕には、文章だけでなく紙面全体で作品になるような雑誌という形態に心惹かれた。それに雑誌は所有欲を掻き立てる。No.が振られているだけで、集めなくてはいけないという義務感に駆られる。

ちまちま本屋で過去の号を買い、数年がかりで購読に追いついた。最後の一冊が届いたその一週間後くらいに、ふとその中の一冊を読みたくなり、本棚に手を伸ばす。びっしり詰まったMONKEY。いい眺め。雑誌が揃っていることほど、僕の欲望を満たすことなんてない。

本が抜けない。それほどまでに密に本が詰め込まれているのか。そろそろ新しい棚を追加しなくてはならない。

力を入れて無理やり雑誌を引っこ抜くと、僕が手をかけた一冊だけでなく両隣にあったものまでついてくる。それら三冊は、まるで一冊の本のようにつながっている。

めくるページに、ふわふわとした固形物がくっついている。それが接着剤の役割を果たしている。

カビだった。あまりにも分厚く長くつながったカビだった。あわてて僕はずしりと思い本棚を引きずって、その裏側を見る。

まるでキノコを育てているみたいに、鬱蒼とした菌の巣窟であった。床には小さな水溜まりができていて、壁から落ちた細かいカビが浮かんでいる。そう、僕の下宿は雨漏りをしていたのだ。

そうして僕は、揃ったばかりのMONKEYを、泣く泣く捨てることになる。というか、300冊くらいの本を捨てた。フローリングは痛んでいたけれど、あまり気にすることもなかった。本を捨てることほど辛いことは他にない。何より僕は、ついこの間MONKEYを揃えたばかりだったのだ。

それ以来僕はMONKEYを買わなかった。捨てたやつを買うのは癪だし、新刊を買おうにも忌まわしい過去が頭をよぎってしまう。アメリカ文学に、それ以前ほど興味を持てなくなったというのもあながち間違いではない。

そんな僕が、3年半ぶりにMONKEYを買う。今度はカビを生やさないように気をつけたい。

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再発行した免許証を取りに行った。 免許証の再発行なんてしたことがなかったので、まあ近くの警察署に行けば簡単に手続きができるだろうと考えていたのだが、調べてみると試験場に行くしか方法はないらしい。都内には三つしかないから、これは面倒だな、と思う。しかしよくよく考えると更新の際も試験場に行かなければならないのだから、それは至極当たり前のことで、物事を安易な方に考えてしまう自分の性格が垣間見えたような気がして少し嫌な気分になる。 というわけで、先週の金曜日に鮫洲の運転免許試験場に行った。幸運なことに、試験場は通勤途中の駅が最寄りらしい。それにネットで調べると手続きにかかる時間は30〜1時間とのことで、それならば営業時間(この言い方は正しいかな?)ジャストに行けば、余裕で仕事に間に合うだろうと算段する。 朝の自由な時間が削られるのは嫌だが、こればかりは仕方がない。朝起きると急いで顔を洗い、PCを開く。スマホがないから、家にいる間に電車の時間を調べ、試験場の位置を再確認しておかなければならないのだ。出発の時間はすぐそこに迫ってきており、慌てて荷物をまとめて部屋を飛び出す。 小走りで駅に向かう。改札をくぐり抜け、大股で階段を昇って調べどおりの電車に乗り込む。いつも乗る急行だか特急だかと違って、乗客は少ない。えらく快適と思いながら座席に腰を下ろした瞬間、漠然とした嫌な予感が襲ってくる。その曖昧な不安は、「扉が閉まります」という車掌の声が終わるまでに明確な形をとる。 身分証明書を持ってきていない。ネットで調べたところ、なんらかの身分証明書が必要だと書いていたはずだ。あと印鑑とかも。家を出る数分前にはそのことを認識していたはずなのに、顔を洗っている瞬間にすっぽりと記憶から抜け落ちてしまった。 いや、でも住民票は持ってきている。これで突破できるのではないか。しかし常に安易に物事を考えてしまうのが僕の悪癖であり、こうした甘い幻想は常に打ち砕かれてきたという歴史があるではないか。ささやかながら、これは自分を変えるチャンスだということで、車掌の言葉と電車のドアが閉まるまでのわずかな時間に頭をフル回転させた結果、僕はこの電車を降りるという判断を下す。 慌てて家に戻る。朝調べた記憶を思い出せば、家から駅までの往復を全力で疾走すれば、次の普通電車に乗れるはず。無邪気に駆けている小学生の一団を、大人の実力を見せてやるとばかりにごぼう抜きし、息も絶え絶え散らかった部屋に飛び込む。忙しなく身分証明書と印鑑をポケットに突っ込んで再び走り出すと、先ほど追い抜いた小学生たちが僕をキョトンとした目で見ている。 しかしそんなことどうでもいい。こちとら時間がないのである。大人の本気が見たけりゃついてきな、と格好つけた目配せをしてみたが、信号の待ち時間で振り返ったところで小学生の姿はもちろんない。 それはともかく最寄駅のホームに二度目の上陸をしたのだが、お目当ての電車の姿はどこにもない。掲示板を見てみても、すぐにその電車が来る予定はないという。結局26歳の全力疾走空しく、駅のホームでポツンと電車が来るのを待つしかない。これならばコーヒーでも飲みながら優雅に駅まで歩けばよかった。散歩している犬と戯れ合うくらいの時間もあったはずだ。 まあそうして予定から三十分ほど遅れて電車に乗り込み、遅れた時間をそのまま保持したまま試験場に到着。迷わなくてよかったとは思う。申請用の写真を撮り(これは免許用の写真とは違う!)、かじかんだ手で手続きの書類に住所やら名前やらを書き込んで、手数料を支払う。スムーズな流れ。これならまだ間に合うかもしれない、と安易な期待が再燃する。 免許用の写真を撮ってもらうと、再発行準備をするとのことで、試験場の2階に案内される。だーっと並んだ座席に、三十人くらいの人が座っている。試験場の時計を見ると、もう九時十五分。あと十五分くらいでここを出なければ、始業時間に間に合わない。この人数からすると、十五分で免許証が発行されるとは到底考えられない。 免許は絶対に早く取った方がいい。これは僕を社会に繋ぎ止めるための、ほとんど唯一の証明書なのだ。会社に連絡して、「私用のため」少し遅れますと伝えようと考える。しかしよくよく考えると、連絡手段が全くないのである。スマホは紛失して持っておらず、手持ちの電子機器はPCのみ。会社の電話番号は記憶していないし(記憶すべきだとは思う)、どちらにせよ始業前だからかけたところで誰も出ない。 落胆しながら、ささやかな期待を持ってPCを開く。Wi-Fiでもないかしら、とネットワーク環境を探ってみると、フリーWi-Fiらしき文字が目に留まる。怪しいやつかもしれない、と少し不安になるが、ちょっとだけということで接続してみると、ちゃんと試験場のWi-Fiであった。神様は見放さないのね、と目を潤ませながらブラウザを開く。 メールアドレスで登録? ネット環境を持たない僕に、メールアドレスで認証しろと? と、この時初めて気がつく。早朝に全力ダッシュをして取りに戻った身分証明書と印鑑を使う機会などなかったのである。そのタイムロスさえなければ、僕は今頃出来立てホヤホヤの免許証を片手に、社会の構成員として存分に自由を謳歌していたはずだ。 まあそれはともかく、連絡手段を完全に断たれた僕は、その日免許証を受け取るのを断念し、トボトボと会社に向かった。ちょっとだけ遅刻して。 で、発行されたまま金庫に保管されていたその免許証を、昨日取りに行った。こうして僕も社会の一員になったとさ。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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