短い予告編

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仕事終わり、駆け足で電車に飛び乗って渋谷へ向かう。ヒューマントラストシネマ渋谷でビクトル・エリセの『エル・スール』を見るのが目的。

客入りは八割くらい。一人で着ている人が大半で、皆無表情で座席に着く。スーツを着ている人こそ少ないものの、仕事終わりの人が多いような感じがする。当たり前だが土日のシネコンみたいに前のめりで娯楽と向き合おうとしている人が多くいる映画館とは全然違う。

予告編の終わりがけ、僕の座っている席の列に一人の女性がやってくる。腰を上げてスペースを確保するが、その隙間を通り抜けることなく、僕の手前で立ち止まり歩んできた方向と反対に向き直る。自分の動作が無駄であったような気がしてちょっと恥ずかしくなり、誰に対してでもなくぎこちない笑みを浮かべて気まずさを緩和しようと試みる。

僕が腰を下ろした瞬間、その女性は再び反転し僕の前を通り抜けようとする。僕は座席をトランポリンみたいに使って慌てて立ち上がりその女性を奥に通す。すると彼女は僕の隣に座っている男性に何やら小言で話しかける。「席を勘違いしてしまって」と男性が言う。

「席を勘違いしてしまって」と繰り返し男性は言う。その声は上ずっている。「NO MORE 映画泥棒」の映像が、彼の焦りを掻き立てるように館内に響く。

あんなにも長い時間として認識される予告編の時間を、彼は焦りとともに一瞬で乗り越えたのだと思う。


『エル・スール』はいい映画でした。そりゃそうか。ちょっと泣きそうになった。

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友人と一緒に母校の文化祭に行った。卒業して以来高校には一度も足を踏み入れなかったので、おおよそ8年ぶりである。 国高祭。結構、というよりかなり有名な文化祭で、僕もそれに憧れて高校を選んだ節がある。有名なのは三年生の劇で、一夏をかけて準備をする。一二年の頃は部活が忙しくほとんど手伝いもしなかったくせに、部活を引退した最後の夏はこの劇にかなりの時間を捧げた。劇に出たのは良い思い出だ。こういうことをしたかった。夏が終わる時にそう思った記憶がある。これ以上満ち足りた時間を過ごすことはもうこれからないような気がしてとても寂しかった。まあ大学時代も存分に楽しんだので甲乙つけることはできない。とても幸運な高校・大学生活だったと思う。 もう知っている人なんて誰もいないと思っていたのに、隣の隣のクラスの担任の先生がいて驚いた。あまり変わっていなくて、実は卒業してから一年くらいしか経っていないのではないかと錯覚する。 演劇を見ることができなかったのは残念だった。昔から劇はかなりの激戦で、倍率が5倍とかになることもあったような気がするから、仕方がないことだと思う。けれどもその抽選の仕方がだいぶ変わっていて、昔は朝早くから親たちが正門の前に列を作っていたのに、今では文化祭の前に抽選が行われているらしい。どちらにせよ、僕はとうに部外者であることを思って寂しくなった。 コロナの影響もあって、国高祭が外部に開かれたのは四年ぶりらしい。すごい時間だ。当たり前のように毎年文化祭が行われた僕の時代は、やはり幸福な時代だったのだろう。 一二年生の展示を回ったが、どれも面白かった。今は乗り物系のアトラクションが流行っているらしい。外装もすごかった。一年生の女の子に「この外装よくないですか」と言われた。すごいと思うと答えたが、なんだか言葉にすると淡白で僕の感動はあまり届かなかった気がする。本当にすごいと思う。 それにしてもすごい熱気だった。この熱意の傾け方は、間違いなく正しい。僕も頑張らなければと思った。 帰りにレイトショーで『君たちはどう生きるか』を見た。観客置いてけぼり、みたいな感想を耳にしていたけれど、結構素朴な話だと思った。設定も別に荒唐無稽ではないし、むしろ複数世界の扱い方は極めて現在風だと感じた。 とはいえ寂しい話だった。世界の創造者が、自ら生み出したその世界の醜さを受け入れられない物語。と、とりあえずは書いてみるが、そんなことも大して意味がないのかもしれない。フィクションのリアリティは、そうでしか描けないという形で具現するのであって、そこに意味なり解釈なりを見出すことなんかどうでもいいという気分になっている。一番ひどいのは伏線回収。 悪口を言ってしまった。そういうのは金輪際やめにしたい。物語から教訓めいた何かを引き出して、それを根拠に自分を肯定するようなことはやはりよくない。しかもそれは僕が否定したい、物語の意味解釈なのだから。ただ受け止めて鮮明に記憶することだけ。それだけでいいと思う。 僕より若い人と、僕より年長の人の凄まじい熱意に腰を抜かした一日だった。いい一日。ちゃんと寝て、僕もそうした熱意の只中で格闘していきたい。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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