昼寝の才

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昼寝には自信がある。といっても職場で寝る度胸はないから、帰りの電車が現在の代替物だ。

東京駅から中央線に乗るから、帰りの電車はほぼ間違いなく座ることができる。お茶の水くらいまでスマホをいじり、四ツ谷との間でリュックサックから本を取り出し朝読んだ続きを眺めていると、新宿までの間には意識が朦朧としてくる。人差し指を栞がわりにして目を閉じ、窓ガラスに後頭部を預け目を閉じる。最近はヴェルベット・アンダーグラウンドアンドニコのアルバムを聴いていることが多い。アンディ・ウォーホルのバナナのイラストがジャケットのやつ。

昼寝がうまいというのは、絶対に15分で目が覚めるという僕の特殊技能のことを指している。時刻はいつであれ、その眠りを昼寝と規定したからには、僕はうっかり寝過ぎることがほとんどない。

だから僕はいつも、荻窪で目が覚める。だからなんだという話だが、本当にいつも荻窪で起きるのだ。もちろん今日もそう。だからなんだという話だ。繰り返しになるが。


ブログ用のアイキャッチを作りたいが、平日はあまり時間がないので明日からの土日で作ってみようと思う。毎日体裁の整っていない写真ばかり載っけていると、安っぽいような気がする。やはりちゃんとしなければならない。

なんとなくエルミタージュ美術館の写真を選んだ。またロシアに行きたい。次行けるのはいつになるだろうか。ロシア語の勉強も続けていきたいが、なかなか捗らない。有り余る時間が恋しい。

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わたしが「戦略」とよぶのは、意志と権力の主体(所有者、企業、都市、学術制度など)が周囲の「環境」から身をひきはなし、独立を保ってはじめて可能になるような力関係の計算のことである。こうした戦略は、おのれに固有のものとして境界線をひけるような一定の場所を前提としており、それゆえ、はっきりと敵とわかっているもの(競争相手、敵方、客、研究の「目標」ないし「対象」)にたいするさまざまな関係を管理できるような場所を前提としている。 (中略) これにたいしてわたしが「戦術」とよぶのは、これといってなにか自分に固有のものがあるわけでもなく、したがって相手の全体を見おさめ、自分と区別できるような境界線があるわけでもないのに、計算をはかることである。戦術にそなわる場は他者の場でしかないのだ。 ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』、筑摩書房、2021年、32頁。 職場で「戦略」とは何かと聞かれる機会があり、ふと読みかけになっているミシェル・ド・セルトーの『日常的実践のポイエティーク』の一節を連想したのだが、即座に引用できるほどには記憶に定着しておらず、またいかにも「他者の場」たる「職場」という場において、思想書の引用をはかることほど「なんとかやっていく」ための「戦術」からかけ離れた営為もあるまいと思い直し抑制した感情をここに吐露しておく。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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