国高祭に行った

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友人と一緒に母校の文化祭に行った。卒業して以来高校には一度も足を踏み入れなかったので、おおよそ8年ぶりである。

国高祭。結構、というよりかなり有名な文化祭で、僕もそれに憧れて高校を選んだ節がある。有名なのは三年生の劇で、一夏をかけて準備をする。一二年の頃は部活が忙しくほとんど手伝いもしなかったくせに、部活を引退した最後の夏はこの劇にかなりの時間を捧げた。劇に出たのは良い思い出だ。こういうことをしたかった。夏が終わる時にそう思った記憶がある。これ以上満ち足りた時間を過ごすことはもうこれからないような気がしてとても寂しかった。まあ大学時代も存分に楽しんだので甲乙つけることはできない。とても幸運な高校・大学生活だったと思う。

もう知っている人なんて誰もいないと思っていたのに、隣の隣のクラスの担任の先生がいて驚いた。あまり変わっていなくて、実は卒業してから一年くらいしか経っていないのではないかと錯覚する。

演劇を見ることができなかったのは残念だった。昔から劇はかなりの激戦で、倍率が5倍とかになることもあったような気がするから、仕方がないことだと思う。けれどもその抽選の仕方がだいぶ変わっていて、昔は朝早くから親たちが正門の前に列を作っていたのに、今では文化祭の前に抽選が行われているらしい。どちらにせよ、僕はとうに部外者であることを思って寂しくなった。

コロナの影響もあって、国高祭が外部に開かれたのは四年ぶりらしい。すごい時間だ。当たり前のように毎年文化祭が行われた僕の時代は、やはり幸福な時代だったのだろう。

一二年生の展示を回ったが、どれも面白かった。今は乗り物系のアトラクションが流行っているらしい。外装もすごかった。一年生の女の子に「この外装よくないですか」と言われた。すごいと思うと答えたが、なんだか言葉にすると淡白で僕の感動はあまり届かなかった気がする。本当にすごいと思う。

それにしてもすごい熱気だった。この熱意の傾け方は、間違いなく正しい。僕も頑張らなければと思った。


帰りにレイトショーで『君たちはどう生きるか』を見た。観客置いてけぼり、みたいな感想を耳にしていたけれど、結構素朴な話だと思った。設定も別に荒唐無稽ではないし、むしろ複数世界の扱い方は極めて現在風だと感じた。

とはいえ寂しい話だった。世界の創造者が、自ら生み出したその世界の醜さを受け入れられない物語。と、とりあえずは書いてみるが、そんなことも大して意味がないのかもしれない。フィクションのリアリティは、そうでしか描けないという形で具現するのであって、そこに意味なり解釈なりを見出すことなんかどうでもいいという気分になっている。一番ひどいのは伏線回収。

悪口を言ってしまった。そういうのは金輪際やめにしたい。物語から教訓めいた何かを引き出して、それを根拠に自分を肯定するようなことはやはりよくない。しかもそれは僕が否定したい、物語の意味解釈なのだから。ただ受け止めて鮮明に記憶することだけ。それだけでいいと思う。

僕より若い人と、僕より年長の人の凄まじい熱意に腰を抜かした一日だった。いい一日。ちゃんと寝て、僕もそうした熱意の只中で格闘していきたい。

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何の間違いか生徒会の副会長に立候補することになり、選挙演説と称して人のびっしり詰まった体育館の壇上で、所信表明めいた何かをを行うことになった小学五年生の頃のとある秋の日以来、人前で喋ることが苦手という意識を拭うことができずにいる。 正確にいえば、まとまった話をするのがどうもうまくできない。構造化する力、と現在ならばいうだろうその能力は、どうやら社会で綱渡りをする上で極めて重要なスキルの一つらしい。幸か不幸か僕の身の回りには優秀な人間が多く、そういう筋道を立てて話をすることができる人たちがごまんといたのだけれど、その姿を見るとまるで奇術でも使っているかのように僕の目には映る。 その苦手意識から目を背けるために、いつからか僕は「茶化すこと」を覚えた。誰かによって構築された体系に対して、意識的にズレた発言をする。ときにそれは笑いを生むこともあり、僕は自分の言葉がその笑いによって肯定されたかのような錯覚を抱く。 そうした振る舞いによって僕は幸い人間関係を比較的穏便に進めることができていたのだけれど、身についてしまったそうした性質が、もう立派な大人になった僕にとって好ましからぬ影響を及ぼしている。端的にいえば、大人はちゃんとすべきらしい。 まあそんなことは十二分にわかっているのだけれども、ここにはいささか錯綜した僕の葛藤が潜んでいる。本当は僕だってちゃんとしたい。しかしちゃんとできないのだ。 ちゃんとする、というのはつまり、ある種の規範/制度に自分をフィットさせることである。それは敬語を正確に使うことであり、模範解答のような解答をすることであり、話の主要な伏線を回収することだ。生きている上での僕の理想は、まさしくそうした「お手本」の再現である。 しかしそれがどうしてもできない。再び人前で喋ることに話を戻せば、僕の意識がその支配下に収めている時間は、発せられる言葉の前後二秒くらいしかない。もちろんその結果として何を言っているのかわからなくなってしまう。数十秒前に何を話していたのか覚えていない人間が、演説の冒頭で語った内容を回収できるはずもない。 そうした能力の欠如が僕に「茶化すこと」を覚えさせ、ちゃんとしていなさそうな人間としての僕が誕生した。ちゃんとできないから、茶化すしかない。隙間に落ちているユーモアを拾い集めて、何とかやっていくしかない。 ずっとそういう風に自分を分析してきたのだけれど、最近はもしかすると僕は、誰よりもちゃんとしようとしすぎているのではないか、と考えるようになった。一分の隙もない制度以外は制度として認めないような、悪しき完璧主義者が僕の中にいるのではないか。ちゃんとしたいと思うあまり、ちゃんとすることのハードルがおよそ不可能なまで上がってしまい、その非実現性を前にした僕は、ちゃんとしないことでゲームから降りているのではないか。 結構これは僕にとって納得感のある考えだ。僕は新作より古典を好むし、信号はちゃんと守る。法定速度を超えるとドキドキしてしまうし、人と待ち合わせるときは十五分くらい前に到着する。基本的に僕は真面目ちゃんなのである。 ただ、真面目ちゃんなだけでは真面目ちゃんになれない場合もある。論文みたいなかっちりとした文章を書くときであったり、オフィシャルな場で喋ったりプレゼンをしたりするときがその例にあたる。ちゃんとするために、技術が必要とされる場合があるのだ(敬語って難しいですしね)。 ちゃんとする基準が高すぎると、ちょっと技術が要求されるだけで簡単にキャパオーバーを引き起こしてしまう。もちろんそれは能力不足なのだろうけれども、僕の場合は確かにいささか過剰なくらいに形式にこだわってしまう側面がある。ちょっとしたチャットでも助詞の「の」が続くと気持ち悪くなってしまうし、たかだか千字くらいのメモ書きの階層構造を作るために、一時間近く頭を悩ましたりしてしまう。ただの雑談なのにカテゴリーミスがあったら気持ち悪くなってしまうし、本棚の配列が不規則だとすべきことも何も全く手がつかなくなってしまうことがある。 では、僕はどうすべきだろうか。ちゃんとしようと過度に思わないこと。それはそうだ。 多分似たようなことを考えることが巷では流行していて、「ズボラ日記」みたいな漫画が一万くらいリツイートされているのをよく見る気がする。ちゃんとすることに飽き飽きしたのが現代なのだとするならば、僕の悩みはどこにでもあるものなのだろう。 ただし少し異なるのが、ちゃんとしようと思うあまりちゃんとできなくなったという逆説的な事態である。もし僕が本当にそうした状態にあるのならば、その解決策はかなりややこしいものとなる。ちゃんとするために、ちゃんとしすぎないようにすること。ちゃんとする無間地獄。ややこしすぎて、本当はちゃんとしたいのかちゃんとしたくないのかもよくわからなくなってくるが、おそらくこれは真理である。”ちゃんとする”メビウスの輪から逃れる方法は、いったいどこにあるのだろうか。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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