文体あそび

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ここ数年、構成なるものにずっととらわれている。論文には論文の、映画には映画の、短編小説には短編小説のベーシックな構成原理というものがあって、それは各形態ごとに異なりながらどこかで共通しているような何かで、その定義を述べることはできないにせよ、経験的に僕はかなりの程度正確にその有無を把握することができる。少なくとも自分ではそう思っている。

ただし、他人の制作物にあれこれ文句を垂れることはできても、自分がそれを実践しようとするのは話が別だ。むしろ把握してしまうという事実が、僕を制作から遠ざけてしまうことが多々ある。端的に言えば、自分が書いているものに、僕はその原理の不在を見出してしまうのである。

仕事で提案書を書かなければならなくなり、慣れないパワーポイントを使いながら、僕は文章を書いたり写真を貼ったり図形を配置したりしている。しかしその実践の途上で、僕は今目の前にあるそれが提案書の構成から逸脱していることに気がつき、手を動かすことができなくなってしまう。

これは論文なり脚本を書いている時にもしばしば起こる現象で、かつて僕はその原因を「構成しか考えられなくなる状態」に見出した。構成を意識しすぎるあまり、そこからはみ出す饒舌を許すことができないのだ。悪しき完璧主義者がまたしても顔を出すのである。

東浩紀やチェーホフを読んだりすると、自分の構成能力の低さに辟易として、ほとんど筆を投げ出してしまう。彼らは構成が文体に先んずるような書き手である。

一方村上春樹や蓮實重彦を読むと、むくむくと書きたいという欲望が迫り上がってくる。僕にとって彼らは、文体が先にありその後に構成がくるタイプの書き手である。過剰な比喩であったり接続詞を多用する長大なセンテンスであったり内実は様々だが、そこに書かれている文章はあくまで文体におけるリズムを統一するためになされた技巧である。

僕は明確に後者の側に属する人間であるような気がしている。しかしそのことをわかっているくせに、僕には構成を先に決めて書き出すことが書き手の責務であるかのように思えてしまうのである。結果として冗長さは失われ、僕はほとんど文章を書くことができなくなる。というよりもむしろ、全く頭が働かなくなる。

パワポというものは、ほとんど構成がそのまま形になったような表現形態である。当たり前だ。要点をまとめることがスライドなるものの主眼であるからだ。そこに文体なるものは必要とされないばかりか、過剰な比喩など忌避されて然るべきだという風潮は根強い。文体上の挑戦など、ただの格好つけとしてしか認められない。あくまで求められるのは骨組みである。

しかし、僕にとって文体というものは格好つけなどでは到底ない。むしろ僕が冗長に文章を綴るのは、端的にそうとしか書けないからなのである。例えば今日の日記で僕がお堅い文体を使っているのも、ただこうして書くのが書きやすいからなのだ。何らかのリズムに身を任せて思わぬところに文章を運んでいくこと——それだけが僕の得意なことである。

ならば僕はもう、そうした自然発生的な文体の要請に、素直に従っていくしかないのだと思う。それこそ制度として強権的に変じた構成なるものの抑圧と格闘する唯一の道である。

蓮實重彦はどんなスライドを作るのか。そんなことを考えたりするのも面白い。


こんなふうに書くのも久しぶりだけれど、楽しい。賢そうなふりをする文体である。実際は適当に書き殴っただけ。ぐちゃぐちゃです。文章も僕も全部。

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日記をサボってしまった。でもまあそんなに気にしすぎないようにしよう。純度100%の継続を目指してしまうと、わずかな失敗も受け入れがたくなってしまうから。 三連休は京都に行った。金曜の夜に職場から直接新幹線に乗り込み、友人の家に荷物を預けて村屋に駆け込む。激辛のキムチを食べたら本当に辛すぎて、大してお酒を飲んでいないのに体調が悪くなる。そのせいもあってか土曜は夕方くらいまでグダグダ。と振り返りながら、この日程はもうすでに日記に書いたな、と思う。 日曜日にくるりが主催する京都音楽博覧会に行く。2018年以来の参戦。その時はこれから毎年このフェスに行くことを固く誓ったのに、ロシアに留学したりコロナが始まったりして、結局京都在住の期間で行けたのはこれが最初で最後になってしまった。その時買ったTシャツはもうヨレヨレで、そろそろ両肩からずり落ちてしまう。寝巻きに降格して久しい。寝巻きとしての役割ももう終わりが近づいていることを思えば、やはりそれなりの時間が経ったのだと思う。 最初の演者である羊文学の演奏途中からポツポツと雨が降り始め、二番目のハナレグミの時には全員がレインコートを着るレベル。寒かった。 どのアーティストも素晴らしかったが、中村佳穂のアクトには度肝を抜かれた。うまく言えないが、全身が音楽のような感じ。 あと槇原敬之の多幸感。凍え切った身体が、「もう恋なんてしない」のフレーズ一つでポカポカと温まるのを感じた。こういう自分でチケットを買うことはないが、よく知っているアーティストの生歌を聴けるのがフェスの醍醐味だと改めて思う。 まあ雨が降っている以外はほとんど完璧な、素晴らしいライブだった。それに観終わった後に浸かる湯船の気持ちよさ。このために音楽を聴いたというのは……流石に過言だが。 音博に行っている時間を除けば、これまで京都で過ごしてきた時間を凝縮したような三日間だった。なんというか、退屈を煮詰めた感じ。濃密な退屈。十日分のだらけ方を三日で済ましたような時間。結構疲れた。やはりもう僕にとって京都は旅行先なのだと思うと、これはもう途方もなく寂しい。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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