サクサクでなくとも

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昼食を食べに、母親と近所の蕎麦屋に行った。おじいちゃんが厨房で調理を行い、おばあちゃんが接客をする昔ながらのお店だ。

歩いて数分のところにある店だったが、数日前までその存在を家族の誰も知らなかった。正確に言えば、その店の外観は目にしていたが、それが蕎麦屋であることを認識していなかった。RPGをプレイしている時に時折起こる、入れない扉だと思ったら実際は入ることのできる扉だった、みたいな感じだ。あまりうまい喩えではない。

午後一時を過ぎていたのに、店内は混み合っていた。僕と母親が入ろうとすると、扉の向こう側には別の家族づれが立っていて、席は一つしか空いていない。

飲食店でバイトをしている時、一番嫌だったのが、お客さんが連続して入ってくることだった。てんやわんや。バイトをしていたのが遠い昔のような気がして、寂しい気持ちになる。

鱧と海老の天丼ともりそばセットを頼む。天ぷらって絶対にサクサクの方が正しいはずなのに、天丼になると提供時にタレをたっぷりかけてサクサクが消失することがある。カツ丼とかもそう。今回もそのパターンで、前はなんでこんな頭悪いことするんだとか思っていたけれど、最近はそうしたささやかなズレみたいなものを認められるようになった。というより、むしろその潔さみたいなものに、最近は憧れを抱いている。

僕は昔からかなり頭が硬いというか、原理主義者っぽいところがある。一度買い始めた漫画は全巻揃えたいし、バンドのアルバムは一作目から順番に聞いていく。うまくいえないが、何につけその思想みたいなものを全力で生かし切るのが正しさだと考えてきたのだと思う。

要領について。

僕はあまり要領がよくない。というか、かなり悪い。何かを教わっても、それを素直に実行することがどうしてもできないのだ。何を学ぶにしても、その根底にある原理みたいなものを手探りで掴み取ってから、ようやく具体的な実践に移る、というプロセスを経ることになる。だから簡単なことでも、知ってすぐにそれを身につけた、という経験はほとんどない。いろんなことが苦手なまま大人になってしまったのには、そうした僕の性質が関係しているような気がしてならない。こういう奴はきっと、ふとしたきっかけでスパイスカレー作りにハマってしまうことだろう。

天丼だって、別にサクサクを味わう必要なんてないのだ。タレが美味しかったらそれでいいじゃないか。フィクションに接して、この作品を理解するためにはどこどこの描写に着目する、みたいな見せかけの権威主義に従う必要なんてない。

天丼は美味しかった。かなり。それにかなり元気になった。サクサクでない天丼を素直に美味しいと思える自分がいるのだから、もっと気楽にやればいいじゃないか、と思う。

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午前中に『砂の器』を見て、午後からは川崎にビクトル・エリセの『瞳をとじて』を見にいく。 映画の開演までに時間があったので、ブックオフを冷やかしに行くと、ワシーリー・グロスマンの『人生と運命』の第一巻が四冊くらい売っている。在庫が余っているのか、元の値段の半額くらいまで値引きされていて、ちょっと不思議な気持ちになる。この在庫の多さはほとんど村上春樹みたいだ。それにこの分厚い小説はスタッフオススメの自己啓発本、みたいなエリアに並んでおり「効率よく頭を使うってこういうことなんだ!」みたいなPOPがついている。このずれ方は面白いと思って写真を撮ろうとするが、無闇に本屋の棚を撮るのはあまり好ましくないと思い直してやめる。 ブックオフの入っている商業施設のエスカレーターで、偶然中学生くらいの男子二人と目が合う。急にニヤニヤとし始めた彼らが、どんな悪口を僕に言っているのか想像してみたりするが(「髪ボサボサ」、「丸めがね似合ってない」等々)、この野球部的な街で出会う中学生はあまりよい記憶を喚起しないので忘れることにしたい。が、多分できない。 エリセの新作。冒頭の劇中劇がかなり長い会話で、その時点でかなりうとうとしてしまい、少し不安になる。それだけでなくこの映画ではどの会話も省略されることなくグダグダと続くのだが、しかし物語の中盤でそれこそが一つの主題系をなしていることがわかると急に面白くなってくる。 編集される会話/編集されない会話。切り取られる会話/切り取られない会話。前者が映画で後者が人生だと言ったら退屈な二分法にすぎないが、そのバランスをとろうと格闘することこそがビクトル・エリセの映画/人生なのだろうと思うと、かなり泣けてくるものがある。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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