村屋に行きたい

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仕事終わりはやっぱり疲れていて、朝とは異なり座って帰路につくのだけれど、なかなか本を読んだりする気力が湧かずにスマホばかりいじってしまう。

これはあまり良くないぞ、ということで、今日の帰りは漫画を読もうと思う。しかし手元にはなく、東京駅の丸善に寄って漫画を買う。

数字であそぼの七巻を手に取る。すると購買意欲がむくむくと沸き立ってきて、これ描いて死ねとドリフターズの新刊も抱え込んでしまう。三冊も漫画を買って、その中に新しい作品がないのも保守的だよな、と自分勝手な言い訳をこしらえて、アンダーカレントという漫画にも手を出す。僕は漫画に疎いから、今度実写化されるという情報しか持っていない。面白いといいな。


今週末は京都。くるりの京都音楽博覧会を見にいく、というのが一応の口実。会いたい友達はたくさんいるのだけれど、わずか三日の間に誰に会うべきか、みたいなことを考えたくなくて、あんまり人を誘うことができない。

それに京都から帰ってくる時のことを考えると、この時点で少し憂鬱になってしまう。なんてややこしい人間なんだろうね、僕は。

とはいえ、もちろん楽しみ。かなり楽しみ。あと村屋に行きたい。やはり東京に村屋は存在しない。

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国立西洋美術館で開催されているキュビズム展に行く。 20世紀初頭の芸術運動であるキュビズムの源泉がセザンヌに見出されることを知って「へえー」となった。美術史にはかなり疎いのでこんなことは常識なのかもしれないが、写実的でも表現的でもないセザンヌの構築的な筆触が、事物を断片化/再構築するあのキュビズム的な絵柄に繋がっていくというのは面白い。美術史もきっちり勉強したいと思う。 フランティシェク・クプカという作家の「色面の構成」という絵が良かった。こちらを見ている女性の身体の上にいくつものレイヤーが重ねられているようでありながら、その女性の肩から右下に降りてくる色面もまた一つのレイヤーを構成しており、その交錯が上面/下面の関係を破棄しているような感じ。適当なことを書いてみたが、まあ色味が好きだったということに尽きるのかもしれない。 美術館に行くと、どうしても価値というものを考えざるをえない。前にも書いたことだけど、流れ作業で情報として絵画を見るくらいならば図録を買う方が手っ取り早い。しかしそれでもやはり人は美術館に来るのであって(実際かなり混んでいる!)、人は体験を求めているのだと結論づけることもできるのだろうけれど、本当にそれだけなのか。というより、体験とは何なのか。この絵を実際に見たことがあるということ——これは情報なのか、体験なのか。よくわからない。 スタンプラリーについて考える。あれは空白をスタンプという情報で埋めていく作業(=情報を漏れなく回収する)なのか、スタンプを埋めていくという体験を意味するのか。 ある特定の情報を漏れなく回収したいという欲望はおそらく今の時代を象徴する欲望の種類なのだろうが、しかしこれは情報を漏れなく記憶したいという欲望ではないことがミソだと思う。全てが揃ったスタンプラリーに比べて、あと一つで揃うはずだったスタンプラリーの方が、僕たちの記憶に残るものであることはいうまでもない。 カウリスマキの『枯れ葉』を見た。天才や。ほとんど静止したままバンド演奏を見ている人たちの姿を見ると、ああカウリスマキだと思ってしまう。もともと抜群にショットが決まるタイプの監督だとは思っていたけれど、今回がベストではないか。 いいものを見た。あと色がいい。運動ではなくて、色。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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