理論的には理論的などと言ってはならないのだが

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その言い回しを使いたくがないために異なる語彙を探し、ぽっかりと空いたその間隙に種々の言葉を当てはめてはみるものの結局適当な言葉が見つかることもなく、不快感だけを覚えたまま疲れ切ってしまうことがある。

例えば「変数」という言い回し。それはおそらくただ「未確定であること」を名指すために文脈の中に差し込まれているのであろうが、そこに含意される浅はかな数学ないし数字への信奉は、その意味が極めて単純な語彙で説明されるものであるがゆえに、ひどく陳腐なはりぼての様相を呈しているように思われる。

あるいは「理論的には」なる形容。そこに体系だった「理論」などいささかも垣間見えることはなく、ただ2+2程度の計算によって一意に定まる解答のことを指してその言葉が使われているのを目にすると、高々数十年前に「理論以後」との言葉を掲げて人口に膾炙した「実証的」なるものの成れの果てが今まさに眼前にあることに気が付き屈折した高揚を覚えることになる。

しかしそうした語彙をどれほど憎んでいようと、結局僕が放置した言葉の空白は適当な言葉で埋められることもなく、「理論的には」とできうる限り小さく呟いてお茶を濁すことしかできない。

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一昨日のことなのだけれど、高校の友人と一緒に宅間孝行が主宰する劇団(というより演劇プロジェクト?)の舞台を見に行った。演目は『晩餐』。初演は2013年で、それ以来再演されることがなかったというから、きっちり十年ぶりに演じられたということになる。 2075年。母親を早くに亡くし頑固親父の男手一人で育てられた息子が、その父の死後、タイムスリップを行い結婚前の両親に会いにいく。そこで父親が生涯隠していた家族の秘密を知る物語。60歳を超えた息子を演じるのは主宰の宅間孝行、30歳くらいの過去の父親を演じるのは永井大。 2015年。僕がまだ坊主頭の高校三年生だった頃、文化祭の出し物としてこの劇をクラスでやった。 僕たちがその頃参照していたのは、2013年版の『晩餐』。当時息子を演じていたのは中村梅雀で、父親を演じていたのは宅間孝行。 多分坊主の垂れ目だったことが理由で、僕はその息子役を演じることになった。部活を引退してからの二ヶ月弱、受験勉強なんてものを放り投げ、蒸し暑い渡り廊下で毎日のように声を出していたことを思い出す。 あ、え、い、う、え、お、あ、お。近くで演劇の練習をしている人がいるとよく聞こえるこの発声練習にも、いまだにちょっとした親近感を覚えてしまう。今考えると、練習をしていたのは高々二ヶ月なのに。 10年くらいの時間で、かつて30歳だった父親は60歳の息子になり、坊主頭の高校生は髪の長い労働者になった。フィクションを素朴に受け止めていた高校生は、いくらかの見方を習得して少しばかり批判が多くなった。連続する時間の中でじりじりと少しずつ変化が生じたことを疑いはしないのだけれど、言葉だけ取り出してしまえばここにあるのは何だか小さな断絶であるような気がしてしまう。 そういえば昨日で十日間にわたる熊野寮祭も終わりらしい。僕の人生に少なからず関係があったあれこれの場所での出来事が、何だか僕の青春の終わりを告げているような気がしていて、ひどく寂しい気持ちになってしまう。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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