サウナでの争いから降りる

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友人と近くのスーパー銭湯へ。3000円近くするせいか、提供されるすべてのサービスを楽しまなければならないような気がして、忙しなく色々なお湯を点々とする。

いつもはあまりサウナを好まないのだが、そういう理由もあって挑戦。十畳くらいの空間に、大の男が十五人くらいひしめきあっている。サウナだから実際にも暑苦しいのだが、光景そのものもなかなか暑苦しい。

ガリガリの身体をさらに細めながら、「すみません」と小さく呟いて奥の方へ入る。二段になっている座り場の高い方に腰を下ろす。サウナの中にはテレビがあり、半数くらいの人たちはその画面に視線を向けている。残りの半分は、タオルを顔に巻き付けてじっと下を向いている。

すぐに身体が熱くなってくる。とはいえ僕がサウナに入ってから、まだ入り口の扉は開いていない。「もう出たいな」と思うのだが、ここで席を立ったら未来永劫軟弱者との謗りを受けることになるだろう。下を向いて苦悶の表情を押し隠しながら、時間が経過するのをひたすらに待つ。

どれくらいの時間が経っただろうか。僕の右斜め前に座る男性が立ち上がり、小さく伸びをしてサウナを出ていく。それにつられて四、五人が一斉に起立し、そそくさと灼熱地獄を後にする。忍耐力とは、見栄と忖度の連鎖であるとの確信を強くする。

二段になっている列の低い方に座っていた数人が、人の消えた間隙に腰を下ろす。空いたスペースに人がはまり込んでいく姿はまるで逆テトリスだ。流動する人たち。その流れに乗じて、つとめて余裕綽々な顔を作りつつ、僕もサウナを飛び出す。

休日のスーパー銭湯。いかにも休暇と呼ぶべきその時間であろうと、そこには悪しき「男らしさ」や競争原理がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。僕はどこで休めば良いのか。そんなことを考えながら、リラックススペースのソファーで背もたれを限界まで押し倒し、「よつばと!」を読む。二巻くらい読んだところで心地良い睡魔が襲ってきて、その生理的欲求に抗うことなく目を閉じた瞬間、これが正しい休暇であることを悟り、なんとしてもこの空間を守らねばならぬと決意する。

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ここ二週間くらいは仕事の終わりが遅く、家に帰ってはそのままベッドに倒れ込んで朝を迎えるような生活(もちろん比喩的に言えば、ということだ)を送っていたから、どうにも文章を書く気力を捻出できないし、映画を見たり本を読んだりするのも億劫になっていた。 しかしそのお仕事にもとりあえずのひと段落がついたので、いつも通りの時間に家に帰る。休日に作っていたご飯を温めて食べ、さっとシャワーを浴びると3時間ばかりの自由な時間が始まる。 さて今日は何をしようか。フィクションらしき怪文書を作っているから、その続きを書こうか。しかし数日前に書いて途中で放り投げているNetflixの映画『フェアプレー/Fair Play』に関する文章も完成させたいし、混乱したまま読みかけにしているバルガス=リョサの『緑の家』を読み直して続きに手をつけるための英気を養うのもありだ。久方ぶりにロシア関係の本として読み始めたボリショイ劇場の歴史についての本に目を通すのも悪くない。年内に書き上げたい脚本の企画書についても、少しずつ考えを深めていきたい。 とはいえ仕事終わりということもあり、やはり身体が疲れている。そういうわけでとりあえずは映画を見よう。そして時間が余ったらその時間で色々と文章を書いていこう、と段取りを決める。 そういうわけで最近Netflixで公開された『終わらない週末』という映画を見る。色々と良さげな評判を聞くし、何よりTwitterで見た次のコメントが僕の趣味にぶち刺さる予感を高めてくれている。 プロジェクターの電源をつけ、部屋の電気を消す。スクリーンで映画を選択していると、PCデスク兼食事用デスクに食器やコップ、オリーブオイルなどの調味料が片付けられずに放置されていることに気がつく。こういうものは映画を見る前に視界から遠ざけておかないと、せっかく画面に集中しているのに「片付けなきゃな」という邪念が入ってきて、結果鑑賞後の満足感が小さくなってしまう。 混沌した部屋から生まれる思考もあるし、整理された空間がもたらす集中というものもある。いつも通り自分の行動を正当化するような適当な決め台詞を小さく呟いて、暗闇の中ぼんやりとその輪郭をあらわすオリーブオイルの瓶に手を伸ばす。 買ったばかりとは到底思えない軽さを右手に感じ、おやと思った瞬間、確かに掴んでいたはずの瓶は僕の手から離脱してドスンと低い音を立てる。最悪の想像。そしてその最悪の想像は、おそらく全て目の前で実際に起こっている。 視界も定かでないまま倒れた瓶の位置を把握すべく机の上を弄ってみるが、そのせいで瓶は二回転ばかり転がり、さらに被害を甚大なものにしてしまう。落ち着かなければならない。それで電気のリモコンを探すのだが、なかなか見つからない。電気をつけるためのリモコンを探すために、ささやかなものでいいから電気をつけてほしいと願う。起床後メガネを探す時、メガネを探すためのメガネが欲しいと願うように。 なんとかリモコンを見つけて電気をつけるが、そこには目を背けたくなる現実が広がっていた。氾濫した川のように、オリーブオイルは机の上を縦横無尽に駆け巡っている。最近買ったばかりのトラックボールマウスがその大きな流れを受け止め、憎らしいほど黒光りしている。幸いなことに机上に無造作に積まれた(整理するんじゃなかったのかと過去の自分に不信を抱く)諸々の本には被害が及んでいない。5000円くらいで買ったこのマウスは、僕のデスクでブラックホールよろしく全ての被害を一手に抱え込んでくれたのかもしれない。 しかしとにかく悔しい。僕の人生はこんなことばかりだ。新しく買ってようやく手に馴染んできたかなと思えるアイテムには大体コーヒーをぶちまけてきた。そのせいでイライラとして失った時間とお金を考えると、今頃僕はどれだけ立派になれていただろうか。 自分の段取りの悪さにも辟易する。どうして電気を消してからオリーブオイルを片付けなかったのか。空いた時間の活用方法をあれこれ夢想する前に、もっと現実的な行為の順番に頭を悩ませるべきだ。 この悔しさは、何かに発散して一度けじめをつけなければならない。マウスの隙間からじわじわと漏れてくる匂いの良い油をティッシュで拭き取りながら、そんなことを考える。 これまでの人生、幾度もコーヒーをTシャツにこぼしては苛々して小さなうめき声をあげてきた僕。しかしその失態は、ギリギリのところで笑い話に昇華することができた。しかしオリーブオイルをマウスにぶちまけた今、そんな心の余裕は全くない。 つまり「○○に△△をこぼす」という行為には、笑ってやり過ごせるかどうかの臨界点が存在する。そのことについて、人に話でも聞きながら考察してみようではないか。 思い立ったら吉日ということで、映画を見ることも本を読むこともフィクションを書くこともやめて、その計画についての文章を書いてみる。悪くない出来。これはもしかすると面白い企画になるのではないかと甘い期待に陶酔し、ChatGPTにも相談しつつ計画を少しずつ形にしていく。 翌朝、クリックするたびに油の漏れ出るマウスをカチカチとやりながら、僕はこの文章を書いている。若干艶やかになった僕の指先は、長く使ってとうに乾き切ったMacのキーボードにささやかなテカリを与えている。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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