不便さを祈れ

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暫くぶりのお仕事。

昼過ぎに職場近くの神社に行く。もう5日だというのに、結構な列ができていてびっくりした。僕たちの会社は前に予約をしていたらしく、その列には加わらずに拝殿(と呼ぶのかな?)に入る。ファストパスだ、などと冗談を言ってみたりする。文字に起こしてみるとつまらない。

案内された十五畳くらいの一間には、僕たちの会社を含めて四、五社くらいの会社の人たちもいて、みんなスーツを着ていた。僕たちだけが私服で、まあ浮いていると言うわけではないが、なんとなく場違いな気分になる。ほとんど知らない親戚が亡くなって、僕以外の人たちが皆悲しみを押し隠して近況を語り合っているのに、僕と妹だけはその当人をほとんど知らないから、逆に押し黙ってしまうような感じ。

少しすると順番が回ってきて、賽銭箱の奥のスペースに入る。外から見られていて、一般の人は入れない場所が好きだ。ずっと憧れていた高校なり大学に入って、その学校に憧れている人たちに、アドバイスにもなり得ない些細な日常を語ってみせるような優越。「現実は大したことないよ——」そう語ってみせる僕の口振りは自信に溢れていて、今考えると痛々しいと思うのだけれど、あの快感は忘れがたい。なぜだかそうした記憶は全部冬だ。


仕事終わりにドコモショップに立ち寄り、新しいSIMカードを手に入れる。怠惰なあまりAppleの下取りサービスで送ることのできなかった一個前のiPhoneに差し込むと、ちゃんと電波が繋がる。脱—脱スマホ。とはいえしょっちゅう圏外になるからこのiPhoneを乗り換えたのであって、あんまりまともに使える代物ではない。その不便さが、スマホを触る時間を減らしてくれればいいと願う。

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《私生活》とは、私が一個のイメージ、一個の客体と化していない空間的、時間的領域のことにほかならない。私が擁護しなければならないのは、私が一個の主体として存在する政治的権利なのである。 ロラン・バルト(花輪光訳)『明るい部屋』、みすず書房、1985年、25頁。 通勤の電車でこの一節を読んだ。バルトはTwitterに向いていると思う。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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