村屋に行きたい

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仕事終わりはやっぱり疲れていて、朝とは異なり座って帰路につくのだけれど、なかなか本を読んだりする気力が湧かずにスマホばかりいじってしまう。

これはあまり良くないぞ、ということで、今日の帰りは漫画を読もうと思う。しかし手元にはなく、東京駅の丸善に寄って漫画を買う。

数字であそぼの七巻を手に取る。すると購買意欲がむくむくと沸き立ってきて、これ描いて死ねとドリフターズの新刊も抱え込んでしまう。三冊も漫画を買って、その中に新しい作品がないのも保守的だよな、と自分勝手な言い訳をこしらえて、アンダーカレントという漫画にも手を出す。僕は漫画に疎いから、今度実写化されるという情報しか持っていない。面白いといいな。


今週末は京都。くるりの京都音楽博覧会を見にいく、というのが一応の口実。会いたい友達はたくさんいるのだけれど、わずか三日の間に誰に会うべきか、みたいなことを考えたくなくて、あんまり人を誘うことができない。

それに京都から帰ってくる時のことを考えると、この時点で少し憂鬱になってしまう。なんてややこしい人間なんだろうね、僕は。

とはいえ、もちろん楽しみ。かなり楽しみ。あと村屋に行きたい。やはり東京に村屋は存在しない。

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昨晩まで実家にいて、夜の電車に乗ってアパートに帰る。色々と食べ物とかバスタオルとかを頂戴して、しばらくお金が浮くなと思う。 家族の中では、僕が一番コーヒーを飲む。母親はそれほどコーヒーが好きというわけではないのだが、実家近くにできた焙煎所が気に入っているらしく、たびたび結構な量の豆を買っては飲みきれないからと僕に譲ってくれる。 しかし今回もらったコーヒーは特別なものだ。 ゲイシャ。 芸者とは関係なく名付けられたというこの豆は、コーヒーをガブガブ飲むくせにその種類や味についてあまり詳しくない僕でも知っている。というのもこのゲイシャなるコーヒー、端的に言ってバカ高いのである。喫茶店のメニューの端っこで、他の豆とは格が違うとばかりにキラキラとした枠に囲まれ、なんだかリッチな太字フォントで書かれたその一杯は、1500円などというおよそノンアルコール飲料とは思えない値段で売りに出されている。 母親はゲイシャをついうっかり買ってしまったのだという。焙煎所で試飲した三種のコーヒーの中で一番美味しいと思ったものを、ほとんどその名前も見ずに選択。いっぱい買うとお得だからということで300gを選択した母親は、レジで7000円が提示された瞬間自分の頭がおかしくなった気がしたという。店内は混雑していたし、豆はすでに挽かれてしまっていたから、もう後戻りはできずそのままコーヒーを受け取って店を出たというわけだ。 そのゲイシャを、家族でそろって飲んでみよう。というわけで三が日の中日に、いつもの三倍くらいの時間をかけて丁寧にコーヒーを淹れる。普段は食器棚の奥にしまいこまれたソーサーとカップを取り出し、沸いたお湯を注いで温める。ちょっとぬるくなったそのお湯を使って、ポットからか細い線でお湯を注ぐ。せっかくのゲイシャを「なんか薄いね」などと形容することは断じて許されないので、こまめにその味を確認して、ベストな濃さを追求していく。 ストイックな作業だ。しかし丁寧に入れたそのコーヒーも、僕たちの口内コンディションが最悪では意味がない。そこで数時間前に歯を磨いたはずなのに、再度歯を磨いて水をがぶがぶと飲み、舌を清潔にした上でようやく湯気立ち上るゲイシャを口に注ぎ入れる。 美味しい。浅煎りのフレッシュな酸味が口内を満たし、それが飲み込まれた瞬間豆の柔らかな甘みが立ち上る。 高いものを飲むと、なんだか語彙が膨らんだような錯覚を抱くが、おそらくそれはこの味を的確に表現しなければならないという強迫観念のせいなのだろう。しかしともかく、これは美味しい。家で淹れても一杯4〜500円くらいはするだろうこのコーヒーに、その値打ちがあるかどうかはわからないが、まあ美味しい。こんなものを飲むのはこれが最後かもしれないから、その味と香りを記憶すべく、家族全員であれこれ言葉を尽くしてみたりもする。 そのゲイシャを、三分の一ばかりもらって帰ってきた。かなりありがたい。 正月ももう終わり。良い正月だったと思う。しかしその帰りに一人夜道を歩いていると、社会で成功しているとは到底思えない大の大人が、食べ物をもらったり家族でトランプをしたりするのは本当に正しいのだろうかと考えてしまう。そんな風にひねくれてしまうのも、自分が知らず知らずのうちに競争社会の只中に放り込まれてしまっているからだと思うと、なんともやるせない気分になる。 その競争を勝ち上がった先には、ゲイシャ(あるいは芸者)が待っているのかしら。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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