「飲む」ことの恥ずかしさについて

article

高校の部活同期と三人で新橋で飲んだ。

野球部の人と会うといつも高校時代の思い出話みたいになるのが常なのだけれど、今回は例外的に自分たちの現在についてのおしゃべりをした気がする。かつての同級生の現在が、このテーブルを囲んで一瞬触れ合った感じがして面白い。


日記を書くときは現在形を使うのが気分なのだが、「○○(ここには人名が入る)と飲む」と書くのには若干の抵抗がある。「○○とお酒を飲みに行く」はいいし、「○○と飲酒する」も許せるのだが、「飲む」とだけ単独で書かれると、曰く言い難いガサツさみたいなものが露出する気がしてあまり気分が良くない。過去形を使うとちょっとマイルドになるので、今回は「飲んだ」と書いてみたのだが、この使い方に対するぼんやりとした嫌悪はなんなのだろう。

もうだいぶ昔、二、三回くらいしかお酒を飲んだことがないときに、人とお酒を飲みに行くのが大人っぽくてかっこよく思え、「呑み?」とラインで返答したことをずっと覚えている。それは僕の記憶の中でもとりわけ恥ずかしい記憶なのだが、なぜ恥ずかしいと思っているのかはいまだよくわからない。

article
ランダム記事
いつもは通らない待ち時間の長い信号で、疾走するトラックの立てる轟音を聞いて、地面がじりじりと振動するのを感じながらひたすらに待つ。 自転車に乗る大学生と思しき四、五人の集団が、ただ一人の歩行者に合わせてゆっくりとよろめきながら近づいてくる。灰色めいたオレンジ色のジャンパーを着た六十歳くらいの男性が、斜めに視線を上げて晴れた空を眺めやっている。制服を着た女子高生のローファーが立てる小気味よい足音が心地良い。 みんな僕の知らない人たちで、今後も関わりを持つことはないだろう。そんな僕たちが広い道路の前で、ひたすらに赤く光り続ける信号機に留められてじっと静止している。 何だか感傷的になっていることを自覚しつつ、確かに信号が青になったことを確認して道路を横断する。僕の前には誰もいない。どうやら歩行者の先頭を任せられているらしい。しかし酔いが回っているせいか、三分の一ばかり進んだところで、まだ赤信号なのではないかという嫌な予感がして、ふと後ろを振り返ると、ついさっき勝手な連帯を覚えた十人ばかりの人たちが僕について歩いている。 もしまだ赤信号だったら責任重大だなと思う。でも振り返って前を向き、ちょっと視線を上げれば青い光が点滅もせずに光っていて、僕はほっと胸を撫で下ろす。 渡り終わって、家の前まで歩いている途中で、彼ら彼女らは僕を信頼して歩いたわけではないことに気がつく。さっさと風呂に入って寝よう。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

コメント

タイトルとURLをコピーしました