花粉が飛んでいても外に出た方が良い

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リモートで仕事をしていると一日中部屋から出ることがないので、生活の中で何かに気がつく感度のようなものがほとんど極限まで低下してしまう感じがある。こうしていざ日記を書こうとパソコンを睨みつけてみても、昨日の記憶はひどくのっぺりとしていて、確かシャワーを浴びている際にあれこれ短い物語を夢想した気がするのだが、それも見たという記憶だけが残っている夢のように漠然とした記憶で、そんなの一日がまるで存在しなかったことと同じことだと虚しい気持ちになってしまう。

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どうしてももう帰路につかねばならない時間になり、最後の抵抗をやめて友人とともにトボトボとバス停へと向かい、京都駅へと向かう206番のバスを待つ。 マルシン飯店に並ぶ十数人を視界の片隅におさめながら、明日からの労働やら東京での生活やらを思ってひどく憂鬱な気分になる。気持ちをリフレッシュしようと京都にやってきたのに、京都での生活がまだ続いているような錯覚を抱いてしまって辛くなる。 すぐにバスがやってきてしまう。やはりこの三日間は幻想だったのかと悲しい気持ちを抱きながら、バスに乗り込もうと一歩踏みだす。 しかしよく見ると、目の前で停止しているその大きな車は、何やら二桁の番号を背負っている。行き先は上賀茂神社。どうやらこのバスは四条あたりで南下を切り上げて、再び北へと引き返してくる予定らしい。 このまま間違ったバスに乗ってしまおうか。ふとそんな誘惑が脳裏に去来する。絶対に東京に戻れない時間に上賀茂あたりでポツンと取り残されて、色々なことを放り投げて京都で暮らしてしまおうか。その方が楽しい生活を送れるはず——。 でも僕にはそんな勇気などない。「危なかった」と、さもこのバスに乗らなかったことが正しいことであるかのように口走り、続いてすぐやってくる206番を待ってしまう。マルシンに並ぶ列に、動いた形跡はない。 東大路通を疾走するバスの車窓から、この窓越しにしか見たことのない幾つもの景色を眺め、さっきの選択は本当に正しかったのかと訝しんでいると、ふと明日の仕事のことが思い出されてしまい、いつの間にか僕は東京にいる。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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