記憶を引っ掻き回す日記は日記なのか

article

鼻毛が出ている。

毛先をつまんで引っ張ると、普段は感じることのない箇所が刺激されて楽しい。


野球部だった頃に、鼻毛が出ていると指摘されて恥ずかしい思いをした記憶がある。「別に出てねえし」と強がるほど子供じゃないが、「伸ばしてるんだ」と言えるほど成熟した年頃でもなく、曖昧な返答をしてその場を誤魔化そうとした。

普通ならそれで会話は立ち消えになるはずだが、その時はなぜだか僕の意に反して鼻毛の話題が継続された。するとふと、誰かの口から「イケメン鼻毛出ない説」が提唱された。部員の中で最もかっこいい後輩に話を聞くと、確かに鼻毛を切ったことはないという。

それで僕たちは、部員を一人一人吟味し、あいつは鼻毛が出るか出ないかで徹底討論をした。あいつは本質的には鼻毛が出るタイプだ、あいつの鼻毛は癖毛に違いない、などとよくわからないラベルを貼ってささやかに盛り上がったような気がする。あまりにも野球部の部室の話題すぎて、それを思い出すとちょっと笑ってしまうくらいだが、結構楽しかった。

そんなことを思い出したのだが、もう眠い。無理やり話題を引っ張り出してくるくらい、今日は取り立てて書くに値する出来事が起こらなかったことを思うと、少しばかり虚しい気持ちになる。

鼻毛は明日の朝忘れずに切る。


画像生成AIで、「カンディンスキー 野球」と書いたら生成された写真。野球をやっていたことは、やはり信じられないような気がしてしまう。

article
ランダム記事
仕事終わりに東京駅の丸善に寄る。寮で丁寧に読み進めていた違国日記が完結したらしく、今は手元にないから買おうと思う。けれども海外文学の棚をぶらついていると、短編が読みたくなって、アリ・スミスの短編集を手に取る。 短編を読みたい気分になったら、ふとMONKEYの短編特集が欲しくなる。『アホウドリの迷信』が入っている号があったはず。でかい本屋で、まあどの本屋でも売っている本を買うのも微妙だから、雑誌のバックナンバーを買うのがいいかなと思った。多分地元の本屋にも売っているけど。 帰りの電車で、短編を二本読んだ。若い頃出会った赤いスーツケースを持った女を探す話と、アメリカの男子高校生がチアリーダーのコスプレをする話。前者は語りが重層化していて、いかにも短編といった感じ。後者は息子にコスプレを勧める父親のキャラクターが好き。どちらも簡単には要約できないし、したところで面白さが全く伝わらないところが良い。 ところでMONKEYには苦い思い出がある。学生時代、僕は二年間にわたってこの雑誌を購読していた。柴田元幸のファンだったし、あの少し硬い紙質や、軽薄そうで軽薄でないイラストが好きだった。文庫本ばかり買っていた僕には、文章だけでなく紙面全体で作品になるような雑誌という形態に心惹かれた。それに雑誌は所有欲を掻き立てる。No.が振られているだけで、集めなくてはいけないという義務感に駆られる。 ちまちま本屋で過去の号を買い、数年がかりで購読に追いついた。最後の一冊が届いたその一週間後くらいに、ふとその中の一冊を読みたくなり、本棚に手を伸ばす。びっしり詰まったMONKEY。いい眺め。雑誌が揃っていることほど、僕の欲望を満たすことなんてない。 本が抜けない。それほどまでに密に本が詰め込まれているのか。そろそろ新しい棚を追加しなくてはならない。 力を入れて無理やり雑誌を引っこ抜くと、僕が手をかけた一冊だけでなく両隣にあったものまでついてくる。それら三冊は、まるで一冊の本のようにつながっている。 めくるページに、ふわふわとした固形物がくっついている。それが接着剤の役割を果たしている。 カビだった。あまりにも分厚く長くつながったカビだった。あわてて僕はずしりと思い本棚を引きずって、その裏側を見る。 まるでキノコを育てているみたいに、鬱蒼とした菌の巣窟であった。床には小さな水溜まりができていて、壁から落ちた細かいカビが浮かんでいる。そう、僕の下宿は雨漏りをしていたのだ。 そうして僕は、揃ったばかりのMONKEYを、泣く泣く捨てることになる。というか、300冊くらいの本を捨てた。フローリングは痛んでいたけれど、あまり気にすることもなかった。本を捨てることほど辛いことは他にない。何より僕は、ついこの間MONKEYを揃えたばかりだったのだ。 それ以来僕はMONKEYを買わなかった。捨てたやつを買うのは癪だし、新刊を買おうにも忌まわしい過去が頭をよぎってしまう。アメリカ文学に、それ以前ほど興味を持てなくなったというのもあながち間違いではない。 そんな僕が、3年半ぶりにMONKEYを買う。今度はカビを生やさないように気をつけたい。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

コメント

タイトルとURLをコピーしました