具体とか重心とかアウトプットとか身体性とか

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代休を取った。

夕方になってからようやく家を出て、近所のコメダに向かう。おしぼりが温かく、なんだか寂しい気持ちになりながら、シロノワールとホットコーヒーを頼む。

案の定でどん詰まっている二月末締め切りの脚本を書いているのだが、別に糖分を補給したところでどん詰まりは解消されない。ウダウダとネットサーフィンをしたり、持ってきた新書をパラパラとめくっているだけで時間は刻々と過ぎていく。

僕の向かいに三十歳くらいの男性が座る。コンパクトなPCスタンドにmacを立てかけ、何やらミーティングのようなものをしている。使っている語彙と「具体」という単語のイントネーションから、コンサルであることを確信する。

結構長い間、僕はその人の属性がわかるような言葉を使うまいと気を配ってきたつもりだ。だから仕事を始めてからずっと、「クライアント」とか「インプット」とか、そういう言葉を出来うる限り避けてきた。

しかし気分を紛らわすために『ツィゴイネルワイゼン』のエセ批評のようなものを書いていると、そこには「重心」とか「身体性」とかいった語彙が、曖昧な理解のまま使われていることに気がつく。

これはもう同じことなのだ。ならば僕はどういう言葉を使ったらいいのか。さっぱりわからない。なんだか色々なことに嫌気がさしている。


帰りに本屋に立ち寄ると、森見登美彦の新作が並んでいる。二月になったら買おうと思いながらパラパラとページをめくっていると、僕の書くあれやこれやがどれもすべて退屈な官僚文書のように思えてしまう。もっとふざけなければならない。僕自身が面白いと思うようにやらなければならない。


夜。知り合いの書いているnoteとかブログを読む。面白くてついつい読み耽ってしまう。しかしその文章が日記という体をとる限り、僕は彼や彼女に「日記読んだよ」とは告げられない。

日記を読むという行為には否応無しにのぞき見をしているという感覚がつきまとうものだ。「僕の/私の日記を読むほどあなたは自分と近しい人間ですか」と言われるような気がして臆病になってしまう。とはいえ公開されているそれらの日記は、知り合いを一人見つけるだけでドミノ倒しのようにいくらでも発見できるのだし、なんでそんな葛藤を抱かなければならないのかとも思えてくる。

僕の日記は「日記と呼ぶほかないもの」であって、別に読まれて恥ずかしいものでも何でもない、というか読み手をきちんと仮定した上で書いているので、なんか感想とか持ったら伝えてくれるととても嬉しいです。

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8月中頃からずっと修正し続けていた論文を書き終えた。卒論を改稿したもので、査読に回したのが6月末。卒論を書いていたのが去年で、その元となる発表をゼミでしたのが2020年の夏前だ。 つまり僕は3年に渡って、同じ作家の同じ作品について考えていたことになる。ずいぶん長い年月だ。勤勉な研究者だったら博論相当の論考を書き上げることもできると考えると、自分の緩慢すぎる歩みには少々辟易してしまう。もちろん研究ばかりしていたわけではない。むしろ脚本を書いたり、夜な夜なおしゃべりをしたり、就活をしたりして、色々と忙しない瞬間があったりもした。それに研究といっても、実際にやっていることは少しばかりの文献を読んで、あとはパソコンと睨めっこをしていたにすぎない。 僕が研究していたのは、アンドレイ・タルコフスキーというソ連の映画監督だ。ちょっとでも映画に詳しい人なら名前くらい聞いたことがあるだろう。いわゆる「アート系」の作家で、長回しが特徴。筋を追おうとすると、煙に巻かれてしまう類の映画を撮っていて、眠くなる映画監督ランキングでは殿堂入りを果たしている。 別に一本書き終えたからといってタルコフスキーとさよならをするわけでもないけれど、せっかくの機会だから出会いとか僕がどういう角度からタルコフスキーを論じているのかを書いてみることにする。 タルコフスキーに出会うまで 僕は大学の二回生の夏に、ロシア文学を専門にしようと決めた。直接的な理由としては、一ヶ月間モスクワに留学したことがある。それについてはいつか詳しく書くけれど、それはそれはとても楽しい日々で、自分の専門性がよくわからなくなっていた僕が決定を下すには十分な理由を提供してくれた。 で、研究室を決めたんだけど、その年の秋くらいに、僕はふと映画を専門にしようと思い立った。なんか直接的な理由があったかもしれないけど、あまり覚えていない。まあそれなりに映画は見ていて、それなりに好きだとは思っていたけれど、結構唐突で突拍子もない決断だった。 ただ一回生の頃、なんとなく履修してみたささやかな日本文学のゼミ(久生十蘭を読んで討論する授業だった)で、ちょっとした挫折感を覚えたことが尾を引いていたのだと思う。すごい同級生がいた。彼女の作品に対する批評的な発言はカミソリみたいに切れ味鋭かったし、物語の要点を掴む能力は今まで会った人の中でもずば抜けていた。帰国子女(だったと思う)であることも、英語が不得手な僕に劣等感をもたらした。 まあそれも浮かれた僕に挫折感を与えるには十分な印象を与えたのだけど、僕が「負けた」と思った点はそれとは別にある。何よりも読んできた量が違ったのだ。こなしてきた物量で、全く敵わないと思った。こんなところにいては埋もれてしまう。それなりに文学屋だと自負していたのに、自分が全然小説なんて読んでいないことが露わになった気がして、結構落ち込んだ。 【追記】卒業間近になって、大学の友人にその話をしてみると、どうやら彼女は僕以外にも強い衝撃を与えたらしい。でも彼女が特別であることなどその当時の僕は知る由もない。落ちこぼれだと感じた過去は、別に後から答え合わせをしたところで変わることはない。 そんなこともあって、僕は1、2年の間、文学とは異なる専門領域を作ろうとあれこれ頭を悩ませていたのだ。ロシアに行って、ああロシア文学だとなった時はそのことを忘れていた。よくよく考えたら、ドストエフスキーとチェーホフが好きといったくらいだ。それ以外ロシア文学は読んだことがないどころか、作品名も作者の名前も知らないくらいのレベルだった。 それで僕は研究室に配属する前に、戦略を立てることになる。王道から少し離れてやろう、と。映画を専門にすれば、少しくらいは一目置かれるのではないか、と。もちろんそれは浅はかな考えで、実際研究室に入ってみると、絵画や音楽の研究をしている人もいたし、映画なんてどう考えても王道も王道だ。しかし当時の僕は、映画を選んだというだけでちょっとした変わり者ポジションに自分が立てると思っていた。 そうして僕は図書館のメディア・ライブラリーでロシア(ソ連)の映画を見ることになる。そうなると最初に手に取るのは、やはりタルコフスキーなのだ。「ロシア 映画」と調べたら最初に出てくるのはタルコフスキーだし(多分)、僕がその当時唯一知っていたロシア人映画監督もタルコフスキーだった。ちなみに今タルコフスキーの作品を見ても、途中で3回くらいは眠り込んでしまう。 最初に見たのは『鏡』という映画だった。何が何だかわからなかった。見たことがある人ならわかると思うけど、誰が誰だか本当によくわからない。というのもこの映画、別々の役を同じ俳優が演じていたり、主人公の姿が画面上に現れなかったりする。気になる人は、YouTubeでモスフィルムが上げているので一度見てほしい。 何から何まで、これまで見た映画とは違うような感触があった。こんなに眠くなる映画は初めてだったし(それ以前の一位はキューブリックの『時計仕掛けのオレンジ』)、こんなに長回しのショットが続く映画も見たことがなかった。あと、映画の随所に見られるホラーっぽい要素にゾクゾクしたことも覚えている。面白いとは思わなかったけれど、すごいものを見たと思った。 もちろん他にもロシア映画は見た。といっても、エイゼンシュテインとヴェルトフとバルネットとソクーロフくらいだったと思う。ソクーロフは本当に苦手で(『エルミタージュ幻想』は除く)、確か『マザー、サン』か『孤独な声』を見たときは、映画が終わるまでに7回くらい寝た。90分に満たない映画だったのに、昼食後に見始めて、見終わる頃には暗くなっていたことを覚えている。眠くなる映画ランキング一位が、こんなにすぐ更新されるなんて思いもよらなかったのはまた別の話。 で、僕はあまり大した思い入れもなしに、タルコフスキーを専門にすると決めた。勝ち筋は何も見えていない。それで僕は最初のゼミで、「崩壊している」と評される発表をすることになる。多分に蓮實重彦の影響を受けた、晦渋な文体で、自分でもよくわからないモチーフを書いたりしたと記憶している。 ↑これ。恥ずかしすぎて、読み返すことすらできない。 研究について まあ当たり前のごとくゼミでボコボコにされた僕は、3回生の冬くらいからようやく本腰を入れてタルコフスキーに取り組むことになる。 日本におけるタルコフスキーの言説は、ほとんどモチーフを分析するものだった。まあ要するに、よくわからない作品に高尚な意味をあてがうような研究だ。作品を超えて繰り返される水とか火とかのモチーフに、物語論的な意味とは異なる連関を見出していく。 それはそれで悪くない。ただ2020年代にもなって、今更蓮實的な主題論的な分析をするのは少し退屈な気がしていた。タルコフスキー研究っぽくない角度から、このよくわからない作家を論じてみたかった。そこで僕は、タルコフスキーの作品に、いわゆる古典的ハリウッド映画の影を見出してみようと思った。「詩的」みたいな言葉を禁じて、徹底的に形式を論じていくこと。 でも形式とはなんだろう。その時僕が念頭に置いていたのは間違いなくロシア・フォルマリズム的・記号論的な意味での形式なるもので、大雑把な理解でいうとそれは作品を単位に分割し、それら分節化された単位が、作品全体の中でどのように機能しているのかを考えていくということになる。「考えるな。感じろ」的な言葉が飛び交うタルコフスキーの周辺において、そうした分析を施すことは多分に刺激的であると思ったのだ。 そうして僕は、タルコフスキーの作品(主に『鏡』)を、ショットを最小単位にして考えてみようと決めた。分割を恣意的なものにしないためには、どうしても文章における単語のレベルにまで目を細める必要があったのだ。 もう一つ、分析のとっかかりになる概念があった。カメラ目線。僕がタルコフスキーにゾクゾクしたのは、画面の奥から僕を見つめる女の顔があったからだ。何度目かの再鑑賞の際に、僕はそのことに気がついた。それで僕は俳優の「視線」に着目して分析をしてみようと思い立った。 映画における「視線」とは、画面内の人物がどこかに目を向けるショットと、それに後続するショットとのモンタージュ間で生起する。具体的にいえば、目の前の人間が窓の外を見やった後に、その窓の外が映像として連鎖するような状況だ。つまりショットが交代することで、私たちは登場人物と視界を共有する。 僕はそこに、客体であった俳優が見る主体へと変貌する瞬間を見てとった。文法的にいうと、、、あれなんだっけ。ちょっと忘れてしまった。まあともかくそれは三人称で書かれた文章の中に、ふとその人物の感情が直接記述されるような現象だ。例えば、 太郎は悔しそうに、手に持っていたスマホを放り投げた。馬鹿野郎。俺がこんな労働をしてるのは、一体誰のせいなんだ。 みたいなやつ。馬鹿野郎以下は、本来なら鉤括弧がついていてもおかしくない文章だ。そのことに気がついた僕は、「視線」に着目すれば『鏡』のナラティブを、形式的に論じることができるのでは、と考えた。 まあそこからは結構複雑な話になるので、また参考までに後日書いてみる。 ともかく、僕は一枚のカードを手にしたような気がした。この着眼点があれば、どこまででもタルコフスキーを論じていける。というか、数多の映画作品をこの視点から読み解くことも可能なのではないか……紆余曲折は経たけれども、この思いつきを2年以上も手放さず議論の中心に据えることができたのは、僕の選択の中でもかなり適切な選択だったと思う。 まあ結論なんてないのだけれど、こんな感じで僕は卒論を書いた。とりあえずのゴールが今度出るらしいので、まあ興味ある人は読んでください。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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