行進を率いて

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いつもは通らない待ち時間の長い信号で、疾走するトラックの立てる轟音を聞いて、地面がじりじりと振動するのを感じながらひたすらに待つ。

自転車に乗る大学生と思しき四、五人の集団が、ただ一人の歩行者に合わせてゆっくりとよろめきながら近づいてくる。灰色めいたオレンジ色のジャンパーを着た六十歳くらいの男性が、斜めに視線を上げて晴れた空を眺めやっている。制服を着た女子高生のローファーが立てる小気味よい足音が心地良い。

みんな僕の知らない人たちで、今後も関わりを持つことはないだろう。そんな僕たちが広い道路の前で、ひたすらに赤く光り続ける信号機に留められてじっと静止している。

何だか感傷的になっていることを自覚しつつ、確かに信号が青になったことを確認して道路を横断する。僕の前には誰もいない。どうやら歩行者の先頭を任せられているらしい。しかし酔いが回っているせいか、三分の一ばかり進んだところで、まだ赤信号なのではないかという嫌な予感がして、ふと後ろを振り返ると、ついさっき勝手な連帯を覚えた十人ばかりの人たちが僕について歩いている。

もしまだ赤信号だったら責任重大だなと思う。でも振り返って前を向き、ちょっと視線を上げれば青い光が点滅もせずに光っていて、僕はほっと胸を撫で下ろす。

渡り終わって、家の前まで歩いている途中で、彼ら彼女らは僕を信頼して歩いたわけではないことに気がつく。さっさと風呂に入って寝よう。

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滞りがちだった日記を、「Cinema Log」として復活させる。前夜に観た映画について、翌朝あれこれ書く企画。リッチな文章の手前、みたいなところを目指している。ちゃんとした記事へ発展しうる素材を書くこと。 というわけで。 気がついたら夜も遅く、ここから長い映画を見ると翌日に響くな……そう思ってU-NEXTを散歩していると、劇場で見逃したセリーヌ・シアマの最新作が、73分という短さであることに気がつく。時間がもったいないので、ほとんど即決で鑑賞開始。ほとんど筋も知らないまま映画に対面するのは、案外久しぶりかもしれない。 冒頭の長回しが抜群に良い。ペン片手に思案する老女が、ふと「アレクサンドリア」と呟く。するとカメラは下方に動き、解きかけのクロスワード・パズルを一面に捉えると、それと同時に画面の手前から小さな手が伸びてくる。文字を書き込む動作を映し出したのち、画面はゆっくりと後退して、老女と少女を同時に画面に収める。少女は「さよなら」と言い、席を立つ。部屋を出て隣の部屋を訪れる少女に、出しゃばることなくカメラは追従していく。どうやらここは病院らしい。隣の病室から、さらに隣の病室へと渡り歩きながら、彼女はそこの住人に「さよなら」を告げていく。三つ目の部屋へ入る少女は、そこで片付けをする女性に「ママ」と呼びかける。ここでショットが切り替わり(ただしそれはほとんど長回しの一部であるかのように、ほとんど編集を意識させない。僕も見返すまで冒頭の流れはワンショットで撮られたものだと勘違いしていた)、窓際で佇む少女の母親を、その背後からカメラが捉える。画面中央の小椅子に座り込んだ母親は、背景となる壁と窓外の景色からその輪郭を際立たせている。その構図を維持したまま、カメラはゆっくりと交代していき、PETITE MAMANという本作のタイトルが表示される。 この冒頭の説話的な意味は、後になってようやく理解できる類のものだ。僕も朝見返すことで、例えばクロスワード・パズルのような細部が説話的な伏線となっていることに気がついたのだが、しかしこのショットの本領はそんなところにあるのではないと思う。 セリーヌ・シアマの作品で最も素晴らしいのは、人物が浮き出て見えるような瞬間を捉えたショットである。それは多くの場合室内で撮られたものだ。のっぺりとした背景の中に、ほとんど動きを止めた役者が構成的に配置される。人物以外が完全に静止していることで、息遣いのような微細な人物の運動が際立っている。そうした「背景と人物の非調和」を示す代表的なショットが、この冒頭であると言えるだろう。 本作において、同様の優れたショットは主にソファーやベッドの周りで展開される。曖昧な記憶だが、それは『燃ゆる女の肖像』でも同じだったような気がする。セリーヌ・シアマの作品群を、寝具に注目して試聴するのも面白いかもしれない。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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