記憶を引っ掻き回す日記は日記なのか

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鼻毛が出ている。

毛先をつまんで引っ張ると、普段は感じることのない箇所が刺激されて楽しい。


野球部だった頃に、鼻毛が出ていると指摘されて恥ずかしい思いをした記憶がある。「別に出てねえし」と強がるほど子供じゃないが、「伸ばしてるんだ」と言えるほど成熟した年頃でもなく、曖昧な返答をしてその場を誤魔化そうとした。

普通ならそれで会話は立ち消えになるはずだが、その時はなぜだか僕の意に反して鼻毛の話題が継続された。するとふと、誰かの口から「イケメン鼻毛出ない説」が提唱された。部員の中で最もかっこいい後輩に話を聞くと、確かに鼻毛を切ったことはないという。

それで僕たちは、部員を一人一人吟味し、あいつは鼻毛が出るか出ないかで徹底討論をした。あいつは本質的には鼻毛が出るタイプだ、あいつの鼻毛は癖毛に違いない、などとよくわからないラベルを貼ってささやかに盛り上がったような気がする。あまりにも野球部の部室の話題すぎて、それを思い出すとちょっと笑ってしまうくらいだが、結構楽しかった。

そんなことを思い出したのだが、もう眠い。無理やり話題を引っ張り出してくるくらい、今日は取り立てて書くに値する出来事が起こらなかったことを思うと、少しばかり虚しい気持ちになる。

鼻毛は明日の朝忘れずに切る。


画像生成AIで、「カンディンスキー 野球」と書いたら生成された写真。野球をやっていたことは、やはり信じられないような気がしてしまう。

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ユーロスペースで『すべての夜を思いだす』を見る。 監督の清原惟さんは何年も前から名前だけを知っていて、いつか見たいなあと思いながらもその機会がなかなか巡って来ず、ようやく新作が劇場でかかることを聞いてずっと楽しみにしていた。 多摩ニュータウンでの一日が、三人の視点で描かれる。いわゆる群像劇で、筋を要約できない(というより要約する意味を持たない)ような映画だった。特に良かったのは、役者の一つ一つの所作が時間を節約するのためにショットに分割されないところ。 たとえば夏という大学生の女の子が亡くなった友人の実家を訪ねるシーンで、家の前に自転車を停めて、少し逡巡した後で呼び鈴を鳴らす(鳴らしたと思う)場面なんかは、まあ一般的に考えて「自転車を降りる」→「扉の前に立っている」とショットが割られて、その間の数秒を節約するのが定石だと思うのだけれど、この映画ではなんと贅沢にその画面が一つのショットに収められている。 一つの画面はただ一つの機能を持つというのがやっぱり作劇の基本というか、基本的な記号学的処理だと思う。でもその中で失われてしまう、世界に対する身体の反応のあり方みたいなものも確かにあって、この映画ではそういった記号化されえないものが常に画面に充溢しているような感じがあった。 この日は舞台挨拶があって、その中で司会の人や俳優たち、監督自身もこの映画の「音」の良さについて語っていた。その素晴らしさは、それが意味(ないし物語)に還元されることなく、ただそこにあるものとして凛とした存在感を放っていることだと思う。 街を撮るというのは生活を描くということで、生活を描くというのは人生の一部を切り取るということだ。過去を直接示すのではなくて、過去から投射された現在を、つまるところ時間の表皮を描くような徹底がこの映画にはある気がした。でも後半になってビデオの映像が映し出された瞬間に、形象化された、それでも意味を成しえない記憶の濁流が一気になだれ込んでくるような感覚があって、それが無性に寂しく、この一日はもう終わりが近づいていることを悟った。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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