記憶を引っ掻き回す日記は日記なのか

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鼻毛が出ている。

毛先をつまんで引っ張ると、普段は感じることのない箇所が刺激されて楽しい。


野球部だった頃に、鼻毛が出ていると指摘されて恥ずかしい思いをした記憶がある。「別に出てねえし」と強がるほど子供じゃないが、「伸ばしてるんだ」と言えるほど成熟した年頃でもなく、曖昧な返答をしてその場を誤魔化そうとした。

普通ならそれで会話は立ち消えになるはずだが、その時はなぜだか僕の意に反して鼻毛の話題が継続された。するとふと、誰かの口から「イケメン鼻毛出ない説」が提唱された。部員の中で最もかっこいい後輩に話を聞くと、確かに鼻毛を切ったことはないという。

それで僕たちは、部員を一人一人吟味し、あいつは鼻毛が出るか出ないかで徹底討論をした。あいつは本質的には鼻毛が出るタイプだ、あいつの鼻毛は癖毛に違いない、などとよくわからないラベルを貼ってささやかに盛り上がったような気がする。あまりにも野球部の部室の話題すぎて、それを思い出すとちょっと笑ってしまうくらいだが、結構楽しかった。

そんなことを思い出したのだが、もう眠い。無理やり話題を引っ張り出してくるくらい、今日は取り立てて書くに値する出来事が起こらなかったことを思うと、少しばかり虚しい気持ちになる。

鼻毛は明日の朝忘れずに切る。


画像生成AIで、「カンディンスキー 野球」と書いたら生成された写真。野球をやっていたことは、やはり信じられないような気がしてしまう。

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滞りがちだった日記を、「Cinema Log」として復活させる。前夜に観た映画について、翌朝あれこれ書く企画。リッチな文章の手前、みたいなところを目指している。ちゃんとした記事へ発展しうる素材を書くこと。 というわけで。 気がついたら夜も遅く、ここから長い映画を見ると翌日に響くな……そう思ってU-NEXTを散歩していると、劇場で見逃したセリーヌ・シアマの最新作が、73分という短さであることに気がつく。時間がもったいないので、ほとんど即決で鑑賞開始。ほとんど筋も知らないまま映画に対面するのは、案外久しぶりかもしれない。 冒頭の長回しが抜群に良い。ペン片手に思案する老女が、ふと「アレクサンドリア」と呟く。するとカメラは下方に動き、解きかけのクロスワード・パズルを一面に捉えると、それと同時に画面の手前から小さな手が伸びてくる。文字を書き込む動作を映し出したのち、画面はゆっくりと後退して、老女と少女を同時に画面に収める。少女は「さよなら」と言い、席を立つ。部屋を出て隣の部屋を訪れる少女に、出しゃばることなくカメラは追従していく。どうやらここは病院らしい。隣の病室から、さらに隣の病室へと渡り歩きながら、彼女はそこの住人に「さよなら」を告げていく。三つ目の部屋へ入る少女は、そこで片付けをする女性に「ママ」と呼びかける。ここでショットが切り替わり(ただしそれはほとんど長回しの一部であるかのように、ほとんど編集を意識させない。僕も見返すまで冒頭の流れはワンショットで撮られたものだと勘違いしていた)、窓際で佇む少女の母親を、その背後からカメラが捉える。画面中央の小椅子に座り込んだ母親は、背景となる壁と窓外の景色からその輪郭を際立たせている。その構図を維持したまま、カメラはゆっくりと交代していき、PETITE MAMANという本作のタイトルが表示される。 この冒頭の説話的な意味は、後になってようやく理解できる類のものだ。僕も朝見返すことで、例えばクロスワード・パズルのような細部が説話的な伏線となっていることに気がついたのだが、しかしこのショットの本領はそんなところにあるのではないと思う。 セリーヌ・シアマの作品で最も素晴らしいのは、人物が浮き出て見えるような瞬間を捉えたショットである。それは多くの場合室内で撮られたものだ。のっぺりとした背景の中に、ほとんど動きを止めた役者が構成的に配置される。人物以外が完全に静止していることで、息遣いのような微細な人物の運動が際立っている。そうした「背景と人物の非調和」を示す代表的なショットが、この冒頭であると言えるだろう。 本作において、同様の優れたショットは主にソファーやベッドの周りで展開される。曖昧な記憶だが、それは『燃ゆる女の肖像』でも同じだったような気がする。セリーヌ・シアマの作品群を、寝具に注目して試聴するのも面白いかもしれない。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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