応用可能なモノマネをしたい

article

風邪気味だったので、自宅でリモート。仕事外の時間が結構あったので、自分自身を反省していた。

自分に不足している能力は、主に人を誘う力と勉強する力だ、という結論に至る。前者は言うまでもない。かなり親しい友人を食事に誘うのすら緊張して、スマホで文章を書いたり消したりしていると簡単に数十分が過ぎてしまう。「ちょっと暇だからさ」と電話をかけたりしたい。

後者について。

正直僕はそんなに勉強が苦手ではない。けれども勉強が下手くそだ。下手くそとはどういうことかというと、何かを身につけるために計画を立てて一つ一つノルマを達成する能力の欠如を意味している。

今考えると本当に馬鹿みたいなのだけれど、受験生の頃、僕は問題集の解説を読んだことがほとんどない。ただ問題を解いて、まるばつをつけるだけ。解けなかった問題はとりあえずチェックだけつけておいて放置。二、三週間くらい経った後に改めて解いてみて、解けたら丸をつけ、解けなかったら改めてチェックをつける。

その期間も別に解説を読んだり、講師の話をちゃんと聞いたりするわけではない。だから同じ問題を解いたところで、誤りのポイントが全く同じだったりする。

でも何の奇跡か、数ヶ月くらい経つと問題が解けるようになっていることがある。その奇跡を寄せ集めることで、かろうじて僕は受験に終止符を打ったわけだが、このささやかな成功体験が僕の成熟を阻害していたことは想像に難くない。

これが勉強する力の欠如、というわけだ。僕にはこれは個人的な性質であるように思える。しかしそうも言っていられないし、この弱点を克服したいと思っている。だからここでこの問題についてもうちょっと考えてみる。

計画を立てるということは、数列を克服したい、といったような比較的抽象度の高い目標に対して、○○の問題を集中的に解くこという具体的なアプローチを考えることだ。それはとある具体物を、応用可能なサンプルとして認識することともいえる。

しかしよく考えてみると、これはこれで結構難しい問題だ。鮭と秋刀魚を捌いていたら、鯛も鯖も捌けるようになった、というのはわかる。しかし鮭と秋刀魚を捌いていたら、鮪も捌けるようになった、というのはどうだろうか。ましてや熊も捌けるようになった人間がいたら、そいつはもはや少年漫画のキャラクターだろう。

鮭を捌く能力は、鮪を捌く能力に直結しない。鮭を捌くことができるということは、比較的小さな魚なら捌くことができるという抽象的な能力の具体例なのだ。

これは当たり前のことに思える。しかし本当にそうだろうか。鮭も鮪も「魚」というカテゴリーでは共通しているのだし、熊だって「動物」と範囲を拡張すればカテゴリーミスにはならない。ここに存するのは「能力」という概念に紐づいた、事後的に構築されたカテゴリーの一致である。

このカテゴリーを把握することが、勉強の巧拙を決定づけるのだと結論づけてみたい。どんな能力を身につけたいのか。それを整理することは、その目的のサイズ感を把握することにほかならない。そしてその枠内に収まる具体的な問題を解くことで、僕たちは何らかの能力を身につけるのである。

と、日記なのにガバガバ論述をかましてしまったわけだが、案外これは今後の僕に実践的なヒントを与えてくれるように思えるのでよしとしたい。日記なので許して。


「制作中」を主題にして、今後は色々な制作を行っていきたい。結論急ぎの論述も、「制作中」であることを理由にして完成物として扱っていく。そうした途上の制作物を組み合わせることで、完成とか完璧とかいう言葉を揺るがしていくのが目的である。

今日はそんなことをあれこれ書いた起草文のようなものを書いたりもした。

article
ランダム記事
正月だからと特別な理由を拵えるまでなく、おそらくはただ休日であるからという理由で朝寝坊をしてしまう。もしかすると昨晩飲んだヤクルト1000が効いているのかもしれないが、別に統計的なデータなどとっていないので、その確かな理由など探りようもない。 この休みの間に書きたいものがたくさんあるので、昼過ぎになったら家を出て実家近くのタリーズで作業をしようと思う。そんなことを考えながら実家のソファーでゆっくりと食休みをしていると、妹が大富豪をやりたいという。前日に祖母宅でやったのがどうやら楽しかったらしい。 それが案外盛り上がってしまい、結局家を出るのは夕方になってしまう。まあ正月だからいいかとも思うが、この言い訳は一般に言われる「正月」の範囲を大きく飛び越えてなお言い訳として機能しうることを経験的に知っているから、ここらでやめにしようと誓う。 駅前のタリーズに向かう。その道すがら、傾斜のきつい坂道の前を通りかかると、まだ今年一度も開いてはいないだろう美容院の前に5kgの白米が落ちている。「置いている」のではなく「落ちている」と言いたくなるような無造作な配置に、この背後にはどのような理由が隠されているのかを知りたいと思うが、そんなことわかるよしもない。数粒ならともかく、一袋ごと落として気づかないことがあろうか。しかしそれなりに人通りのある道の端に生米を置く理由など思い至らない。 米を落とす。 これまで何度となく食事中に炊き立ての白米を箸や口の隙間から落としてきたのだが、それは常に「ご飯を落とす」とのみ呼ばれるような事態で、「米を落とす」という単語の結合にはついぞ出会ったことがないような気がする。おそらく新年だからと理由づける必要もなく、これは2024年に起こる物事の中でも鮮明な記憶としてその先の年月に持ち越されるものであることを確信する。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

コメント

タイトルとURLをコピーしました