精密機器が二人の視線を交わらせること

article

電車に乗り込むとやけに熱く見つめ合う男女がいたので思わずたじろいでしまい、二人から少し離れた場所に陣をとって本を読む。

金曜日だから本当は映画でも見に行きたかったが、飲酒のせいか前夜はあまりぐっすりと眠れたわけでなく、上映中にうつらうつらする予感がしたのでそのまま帰ることを決める。まあそもそも今はWordPressの改修に熱中しているから、映画を見る気分ではないというのもある。

随分と楽しく(ゆっくりと)読んできた蓮實重彦の『夏目漱石論』だが、今日はなぜだか文章が頭に入ってこない。多分疲れているのだろう。数行読んだだけで読書を断念し、本をコートのポケットに突っ込むとチラチラと周囲を観察する。

視線を横に向けると、背の高い男性が斜め下に真っ直ぐに視線を向けている。その向かいには、男性の視線と一致する角度で斜め上を眺める女性の姿。両者の視線は全くブレることなく、ほとんど完全な直線を描いて空間に固定されている。

この二人は見つめあっているわけではなかった。たまたま向かい合った男女がスマホを眺める視線が一致したというだけなのだ。見下ろすようにしてスマホの画面に集中する男と、スマホを掲げてその画面を凝視する女性。何せ二人はお互いの目を見ているわけではないのだから、恥ずかしい思いなど抱くこともなく、ただ二台の精密機器を介して視線の一致が仮構されているにすぎない。


気が向いた人はこの日記をPCで見てください。面白いよ。

article
ランダム記事
ユーロスペースで『すべての夜を思いだす』を見る。 監督の清原惟さんは何年も前から名前だけを知っていて、いつか見たいなあと思いながらもその機会がなかなか巡って来ず、ようやく新作が劇場でかかることを聞いてずっと楽しみにしていた。 多摩ニュータウンでの一日が、三人の視点で描かれる。いわゆる群像劇で、筋を要約できない(というより要約する意味を持たない)ような映画だった。特に良かったのは、役者の一つ一つの所作が時間を節約するのためにショットに分割されないところ。 たとえば夏という大学生の女の子が亡くなった友人の実家を訪ねるシーンで、家の前に自転車を停めて、少し逡巡した後で呼び鈴を鳴らす(鳴らしたと思う)場面なんかは、まあ一般的に考えて「自転車を降りる」→「扉の前に立っている」とショットが割られて、その間の数秒を節約するのが定石だと思うのだけれど、この映画ではなんと贅沢にその画面が一つのショットに収められている。 一つの画面はただ一つの機能を持つというのがやっぱり作劇の基本というか、基本的な記号学的処理だと思う。でもその中で失われてしまう、世界に対する身体の反応のあり方みたいなものも確かにあって、この映画ではそういった記号化されえないものが常に画面に充溢しているような感じがあった。 この日は舞台挨拶があって、その中で司会の人や俳優たち、監督自身もこの映画の「音」の良さについて語っていた。その素晴らしさは、それが意味(ないし物語)に還元されることなく、ただそこにあるものとして凛とした存在感を放っていることだと思う。 街を撮るというのは生活を描くということで、生活を描くというのは人生の一部を切り取るということだ。過去を直接示すのではなくて、過去から投射された現在を、つまるところ時間の表皮を描くような徹底がこの映画にはある気がした。でも後半になってビデオの映像が映し出された瞬間に、形象化された、それでも意味を成しえない記憶の濁流が一気になだれ込んでくるような感覚があって、それが無性に寂しく、この一日はもう終わりが近づいていることを悟った。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

コメント

タイトルとURLをコピーしました