半分夢 半分嘘日記

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つい数日前に夢を思い出せなくてウンタラカンタラと日記に書いたが、今日見た夢はかなり鮮明に覚えている。

結局思い出せない夢のせい
これは日記に書くべきだという興味深い夢を見たのだが、やたらに早くかけ過ぎた目覚ましの反動でしっかりと寝落ちしてしまい、スッキリと目覚めた今ではもう何も覚えていない。下着がぐっしょりと汗で濡れているので、良い夢ではなかったのだと思う。うーん。...

僕は京都にやってきた旅行者。夜の木屋町で自転車を漕ぎながら夕飯を食べる店を探している。一通り飲食店を回ってみて何軒か候補をリストアップするものの、結局決めきれずに検索に頼る。するとその中の一軒であった安価なラーメン屋が飛び抜けて高い評価を受けていることを知り、そこを訪れることに決める。

そこは中華料理屋風に漢字二文字で名付けられたお店だ。路地裏で営業しているのだが、入り口となる扉はなく、店全体がテラス席のように外に開かれている。妖しげな赤や青の照明が至る所に置かれていて、異国情緒漂う雰囲気は『千と千尋の神隠し』で千尋の両親が豚に変わったあの屋台に似ている。

中にいる客は少なく、皆一人で丼を睨みつけて黙って箸を動かしている。どうやらわんこそばのようなスタイルらしく、ふと目についた男の席には何十個もの空いた丼が並んでいる。しかもその皿はどれも大きい。普通のラーメン一人前くらいの量を、男は全て平らげたらしい。

店員の男(容貌はどうも思い出せない)に案内されて、奥の方の席に案内される。メニューが見当たらずあたふたしていると、再び店員がやってきて「うちはメニューが一つなんですよ」と言う。「うちはね、乾麺のお店なんです。だからこんなに安く提供できる」

彼はそう言って壁面に貼られた紙を指さすと、そこにはコピー用紙に青のマジックインキ「30分500円」との文字が書かれている。

「麺は適宜補充しますから安心してください」男はそう言うと、ぐつぐつと煮えた大きな鍋が見える厨房へと姿を消す。

しばらく待っていると、つけ汁と麺が運ばれてきた。簀の上に乱雑に並んだやけに太いその麺は奇妙なほど角ばっている。普通の麺が円柱だとするならば、この麺は角柱と言ってよい。それに長さもまばらだ。小指ほどもない麺がある一方、始点も終点もわからないほど長い麺も混じっている。高野豆腐みたいに皺だらけであることも気になる。

一見したところつけ汁はオーソドックスなもので、適度な酸味と獣感が感じられるその匂いは食欲をそそる。まあとにかくお腹も減っているので、とにかく麺を口に運ぶことにする。

美味しくない。

嫌悪すべきまずさ、というほどでもないが、やはりあまり美味しくない。カップヌードルの麺の悪いところを増大させたような味で、一度乾燥させたことで生じる雑味が強調されている。太さの割にやけにスカスカな印象をもたらすその麺は、食べても食べてもお腹に溜まっていかないような感覚がある。

とはいえお腹が減っているので、勢いのまま一皿目を食べ終える。最後の一口を咀嚼し終えた瞬間、音も立てずに男がやってきて、黙って新しい麺の入った丼を置いて去っていく。

これが30分も続くのか。僕は憂鬱な気持ちになってその麺に目を向ける。麺量は一皿目よりも増えている。


ここで目が覚めた。今日は麺類を口にせず、白米を食べることにしよう。

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ジャームッシュは常に正しい。 映画言説の中でこうした考えは当たり前のものとして定着しているのかもしれないが、なにぶん不勉強なので、ジャームッシュがどのように語られてきたのかはほとんど知らない。しかし極めて個人的な感覚として、ジャームッシュの映画を見る時に常に感じるのは、その律儀なまでの「正しさ」である。 プチ批評 『ダウン・バイ・ロー』の驚き そのことに思い至ったのは、二年ほど前に『ダウン・バイ・ロー』を見た時のことである。協力して脱走した三人の囚人。些細な原因から彼らはわずかな時間別行動をとることになる。 夜の森の少しひらけた場所で火をくべている三人。一人は元の場から左手奥へ、もう一人は右手奥へと消えていく。残された一人はその場にとどまり、座り込んで肉を貪っている。 続くシークェンスで、別れた三人がそれぞれ単独のショットで捉えられるのだが、そこで何よりも素晴らしいのは、画面の左奥に消えた人間は画面左方へ歩くものとして、右奥に消えた人間は右方へ歩くものとして、きちんと整理された上で構成されている点にある。 それまでの僕はおそらくサブカル的にジャームッシュを消費していた。面白いのか面白くないのかよくわからないが、これを面白いと言わないと自らのセンスが否定される。それはほとんど踏み絵のようなものであったのだが、正直なところ僕が彼の映画で好きだったのは、『ナイト・オン・ザ・プラネット』の第一話に出てくるウィノナ・ライダー演じるタクシードライバーに限られていた。煙草をばかばか吸う、ポスターに出てくるあの有名な女の子だ。個人的に、説話に回収されないあのダラダラと続く会話や、唐突に繰り広げられる「演技」としての虚構性を、ジャームッシュ固有の美点として捉えることは一切できなかった。 そんな風に、熱狂とは程遠いところでジャームッシュを見ていたから、『ダウン・バイ・ロー』で初めて気がついたそのど真面目な図式性に、僕は結構驚いてしまった。オフ・ビートな作風、みたいな形容は、この正確さを語った後に補足として付け加えられる程度でなければならない。 その気づきは確かな感動であった。その後はどのジャームッシュの映画を見ても、一つ一つの編集が映画空間を正しく構築していることに目がいってしまう。こんなに「正しい」映画は滅多にない。 ジャームッシュの「西部劇」 そのジャームッシュが、西部劇を撮る。 西部劇とは、言うまでもなく空間の構成が作品の質に直結するジャンルである。馬たちの追いかけっこは、曖昧な位置関係では決してサスペンスを構築しえない。別個のショットで捉えられた二者が、それでいて「追うもの」と「追われるもの」としての連携を形作らなければならないからだ。 本作も西部劇の伝統にならって、「追うもの」と「追われるもの」の関係が物語を前進させている。疾走する馬たちのチェイスこそ描かれていないが、確かにこれは「真面目な」西部劇である。 もちろん本作でもジャームッシュらしく「正しく」空間が構成され、観客は登場人物の位置関係を正確に把握することができる。 しかし、ジャームッシュがこれを撮る必要があったのかは何とも言えない。彼の美点は、乾いた都市の中で生きる若者たちを軽やかに描きながら、正当な映画史的伝統を引き継いだ「正しい」画面を構成する、その混淆の中にあるような気がするからだ。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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