不愉快な顔に目を瞑るな

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どこかで遅延が発生したのか、帰りの電車がいつもにまして混みあっている。人が押し合いへし合いしている狭い密室で、観光客と思しき人たちが仲間たちとニヤリと笑いつつ、時折本気で嫌がっている表情も浮かべたりする。まあそりゃそうだと思う。満員電車って海外では結構知られているのかしら。

うっかり最寄り駅で開くドアから最も遠い位置に陣取ってしまったので、固まった人の群れをかき分けて降りるのが難しい。電車が駅に到着し扉が開くと、すみませんと小さく声を出してみたり、わずかにできた人の隙間に肩を差し込んでスペースを作ってみたり、色々の工夫を凝らして少しずつ外に近づいていく。

しかしどうにもうまく進まない。大きな荷物が多いというのもあるだろうし、乗客の多くが満員電車に慣れていないという理由もあるだろう。いつもはここまで混雑する路線でもない。

とはいえここで妥協して最寄り駅で降りることができなかったら、ただでさえいつもより少し長く仕事をしてしまってムカムカしているこの気持ちが、さらに腹立ちにまみれてどす黒く変色してしまうことだろう。映画も見たいし、読みかけになっている本の続きも読みたい。帰路に着く僕がとにかく確保すべきは労働から離れた時間であって、それを守るためには多少とも己を鬼にして前進を続けなければならない。

そんなことを考えていたとき、僕はいつもの僕が厳しく嫌悪するあの不機嫌な労働者の顔をしていたのだろう。勝手に自己を正当化し、開いた扉に向かって前に進むだけの機械人形と化した僕は、ぐいと身体を押し込んだその場所に立っている女性が浮かべた不愉快そうな表情に気が付きつつも、それを決して目に留めようともせずひたすらに降り口を目指す。

他人を蹴散らして降り立った最寄り駅はやけに涼しかった。その女性の顔がふと思い出される。申し訳ないことをした。もしかすると彼女は観光客で、この旅行を楽しみにしてきたのかもしれない。その喜びに僕が水をさしてしまったのならば、これほどまでに醜悪な行為もないだろう。

こうした繰り返しで人は心に闇を宿すようになり、他者に対して無関心となっていくのかもしれない。そう思うと、邪悪さへと向かう扉があの満員電車の扉であったかのような気がしてしまう。

反省。

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金曜の夜ということもあって、食後の時間をだらだらとスマホを見て過ごしてしまう。張りのないままこのまま夜を伸ばしていき、翌朝目が覚めるともう昼手前で後悔する予感がする。 「本当はダメって書いてあるけどな」 そう思いながらも、夜中のうちにゴミを出しに外に出る。朝八時に目が覚める未来など描けない。明日の収集日にゴミを出せなければ、はち切れんばかりに膨らんでいる我が家のゴミ袋は、二日後くらいには本当にはち切れてしまうだろう。生ごみの臭いが充満する部屋を想像に浮かべながら、薄着の寝巻き姿で外に出る。 アパート前に設置されているダストボックスを開けると、10歳くらいの少年がゴミに囲まれて眠っている。驚いた僕は一度蓋を閉め、長い間放置されてヌメヌメとした袋を手につかんだままその場に立ち尽くす。人に見られてはいけないような気がしてあたりを伺うが、幸い近くには人の気配はない。 見て見ぬ振りをして、そのままこの場を立ち去ってしまいたいと思う。しかし一度ゴミ箱から出したゴミ袋を元の場所に戻すなんてことはしたくない。とりあえず一度冷静にならなければならないと思い、ゴミ袋を路上に放置したまま部屋に戻ろうとすると、ダストボックスがギシギシと音を立てる。 半袖短パンの少年がゴミ箱の中から出てきて、キョロキョロと周囲を見回す。僕の存在に気がつくと、じっと僕の目を見つめてくる。微動だにせずまっすぐ僕を見るその眼差しに、僕は少々面食らってしまう。 十秒くらい経った。痺れを切らしたように「何?」と少年は言う。 「何してるの? そんなとこで」僕は寒さに震える声を絞り出して言う。 「寝過ごしちゃった」そう言うと少年は大きなあくびをして、手をまっすぐ天に掲げて背伸びをする。「かくれんぼしてて」 「寒くないの?」と僕は尋ねる。 「うーん。確かに。寒いかも」 少年は眠そうに汚れた手で目を擦る。パックマンに似たキャラクターが満面の笑みを浮かべている青いTシャツを着て、体操着みたいな短いズボンを履いている。足元は汚れたコンバース。踏み潰された踵はほとんど靴底と一体化している。 「汚い手で目を擦らない方がいいと思う」思いついたままに僕は言う。「うちのシャワー使っていいから」 「どうしよっかな」少年は少しの間考えた後にそう言うとスタスタと歩き始め、アパートの階段を登っていく。少年の後をついていくと、彼は躊躇なく僕の部屋の扉を開けて中に入る。 扉が勢いよく閉じられ、鍵の閉められた音がする。しばらくしてチェーンロックをかけるじゃらじゃらとした音が薄い扉の奥から聞こえてくる。ゆっくりと扉が開き、その隙間から少年がチラと顔を出す。「ゴミ置いてきたらダメでしょ」やけに真剣な表情でそう言うと、再び扉を閉める。 僕は締め出された部屋の前で立ち尽くす。しかしじっとしていると寒いし、少年の言葉にも一理あると思い、とりあえず路上に置かれたままのゴミ袋をダストボックスの中に放り投げる。再び自室の前までやってくると、シャワーの水が浴室に跳ね返る音がする。僕は近隣の住人に迷惑にならぬよう、扉を軽くノックする。シャワーの音が止まり、湿った足裏がフローリングを叩くペチペチとした音が響く。扉が開き、泡だらけの髪をした少年が顔を出す。 「ゴミは捨てた」と僕は言う。少年は不思議そうな表情のまま黙り込んでいる。 「鍵開けて。僕の家だし」 「違うって」少年はそれだけ言うと、再び扉を閉めて鍵をかける。 「違わない」そう答えようと口を開くが、閉じられた無機質な扉は僕の言葉など受け付けていないことに気がつき、口をつぐむ。僕は少しの間この状況を整理しようと頭を働かせるが、どうにも理解ができない。それに彼の求めていることが何であるのか、少しも検討がつかない。 僕はその場を離れ、近所のコンビニへと向かう。何を買うでもなくやってきた店内にはめぼしいものが一切見当たらず、興味のない週刊誌をパラパラと読み、調味料の置いてあるコーナーへ足をのばす。そういえばポッカレモンが欲しかったと思い出し、スーパーで買うよりも高い小さな瓶を手に取ると、財布もスマホも部屋の中に置き去りになっていることに気がつく。自動ドアをくぐり抜け外に出ようとすると、退屈な表情を浮かべた若い女性の店員が僕をチラと見る。僕はその視線を感じ、さも欲しいものがなかったのだという態度を示しつつ退店し、再びアパートに戻る。 ダストボックスの前に、小さなしみができている。濡れたゴミ袋を置いた跡だろう。そこから数十センチほど離れた場所に、食品用トレーの破片が落ちている。手にとって眺めてみると、駅前のスーパーで一週間ほど前に三割引きで買った豚バラ肉のトレーであることがわかる。生臭い肉の臭いがプンと立ち上り、僕の鼻腔を震わせる。 ダストボックスを開けて、自分の捨てたゴミ袋を探す。固く結ばれた紐を解き、トレーをその中に押し込む。再度その袋をぎゅっと縛り、蓋を閉めようと取手に手をかけると、壁面に書かれている注意書きが目にとまる。「収集日の朝、8時までにゴミを出してください」 僕はゴミ袋をダストボックスから引きずり出す。様々な種類のごみが混じり合った臭いが立ち上ってくる。袋を持ったまま部屋の前まで向かい、静かに扉を叩く。しかし返答はない。 再び階段を降り、ダストボックスを開く。ゴミ袋が一つ。それら全てを路上に並べ、ひとつひとつ袋を開いていく。バナナの皮がぎっしりと詰まった袋は、底の方が黒く変色して粘り気の強い水が溜まっている。僕はその中に手を突っ込み、ゴミが路上に散らばらないよう細心の注意を払いながらバナナの集積をかき分けていく。指先に何かで刺されるような鋭い痛みが走る。人差し指に闖入したその異物を頼りにして、僕はバナナの中に隠された何かを引っ張り上げると、それは丸められたギターの弦であった。 休日の昼間に、小さな音でギターを弾く音が隣の部屋から響いてくることを思い出した。僕はその弦をポケットにしまいこみ、ゴミ袋をきつく縛ってその部屋の前に置く。袋の端には血の跡がうっすらと残っている。 自室の扉の前に立ち、再び扉をノックしようと右手を挙げるが、直感的に鍵が開いていることを悟る。ドアノブに手をかけ、扉を開く。扉の前に置かれたゴミ袋を手に持って部屋に入ると、白い照明に照らされた室内は心なしか綺麗になったような気がする。音を立てないよう静かに靴を脱ぎ、玄関の鍵を閉める。キッチン横のゴミ箱にそのゴミ袋を入れ、ギターの弦を丁寧に洗う。 ベッドでは、僕の買ったTシャツを着た少年が安らかな寝息を立てている。枕元には、中身の飛び出したUNOの箱がちょこんと置かれている。少年の身体からは、シャンプーの良い香りがする。 僕は押入れの中から友人が泊まりにきた時使う薄い敷布団を引っ張り出し、フローリングに敷く。そのまま眠りにつきたかったが、僕の身体からほんのりと香る生ごみの臭いに耐えられず、音を立てないようチョロチョロとシャワーからお湯を流し、全身を洗う。 ドライヤーも使わずにそのまま布団に倒れ込み、電気を消して目を閉じると、そういえば最近UNOをする機会などなかったなと思う。ドロー4のカードってどんなやつだったか思い出そうとするが、結局思い出すこともなく、気がつくと深い眠りに落ちてしまう。 目が覚めると、いつもより視界が広いような気がする。カーテンの向こう側から、ゴミ収集車がアパートの前で停まる音がする。またゴミを捨て損ねてしまったと後悔しながらキッチンに向かい、お湯を沸かしてコーヒーを淹れる準備をする。コーヒー豆にお湯を注ぐと、芳しい香りが部屋を満たす。 淹れたてのコーヒーを一口啜り、日記を書こうとパソコンの前に座ろうとすると、シンクに残されたコーヒーの搾りかすが気になり、再びキッチンに戻ってそれをゴミ箱に捨てようと蓋を開ける。 空っぽ。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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