『デッドマン』ジム・ジャームッシュ、プチ批評

article

ジャームッシュは常に正しい。

映画言説の中でこうした考えは当たり前のものとして定着しているのかもしれないが、なにぶん不勉強なので、ジャームッシュがどのように語られてきたのかはほとんど知らない。しかし極めて個人的な感覚として、ジャームッシュの映画を見る時に常に感じるのは、その律儀なまでの「正しさ」である。

プチ批評

『ダウン・バイ・ロー』の驚き

そのことに思い至ったのは、二年ほど前に『ダウン・バイ・ロー』を見た時のことである。協力して脱走した三人の囚人。些細な原因から彼らはわずかな時間別行動をとることになる。

夜の森の少しひらけた場所で火をくべている三人。一人は元の場から左手奥へ、もう一人は右手奥へと消えていく。残された一人はその場にとどまり、座り込んで肉を貪っている。

続くシークェンスで、別れた三人がそれぞれ単独のショットで捉えられるのだが、そこで何よりも素晴らしいのは、画面の左奥に消えた人間は画面左方へ歩くものとして、右奥に消えた人間は右方へ歩くものとして、きちんと整理された上で構成されている点にある。

それまでの僕はおそらくサブカル的にジャームッシュを消費していた。面白いのか面白くないのかよくわからないが、これを面白いと言わないと自らのセンスが否定される。それはほとんど踏み絵のようなものであったのだが、正直なところ僕が彼の映画で好きだったのは、『ナイト・オン・ザ・プラネット』の第一話に出てくるウィノナ・ライダー演じるタクシードライバーに限られていた。煙草をばかばか吸う、ポスターに出てくるあの有名な女の子だ。個人的に、説話に回収されないあのダラダラと続く会話や、唐突に繰り広げられる「演技」としての虚構性を、ジャームッシュ固有の美点として捉えることは一切できなかった。

そんな風に、熱狂とは程遠いところでジャームッシュを見ていたから、『ダウン・バイ・ロー』で初めて気がついたそのど真面目な図式性に、僕は結構驚いてしまった。オフ・ビートな作風、みたいな形容は、この正確さを語った後に補足として付け加えられる程度でなければならない。

その気づきは確かな感動であった。その後はどのジャームッシュの映画を見ても、一つ一つの編集が映画空間を正しく構築していることに目がいってしまう。こんなに「正しい」映画は滅多にない。

ジャームッシュの「西部劇」

そのジャームッシュが、西部劇を撮る。

西部劇とは、言うまでもなく空間の構成が作品の質に直結するジャンルである。馬たちの追いかけっこは、曖昧な位置関係では決してサスペンスを構築しえない。別個のショットで捉えられた二者が、それでいて「追うもの」と「追われるもの」としての連携を形作らなければならないからだ。

本作も西部劇の伝統にならって、「追うもの」と「追われるもの」の関係が物語を前進させている。疾走する馬たちのチェイスこそ描かれていないが、確かにこれは「真面目な」西部劇である。

もちろん本作でもジャームッシュらしく「正しく」空間が構成され、観客は登場人物の位置関係を正確に把握することができる。

しかし、ジャームッシュがこれを撮る必要があったのかは何とも言えない。彼の美点は、乾いた都市の中で生きる若者たちを軽やかに描きながら、正当な映画史的伝統を引き継いだ「正しい」画面を構成する、その混淆の中にあるような気がするからだ。

article
ランダム記事
8月中頃からずっと修正し続けていた論文を書き終えた。卒論を改稿したもので、査読に回したのが6月末。卒論を書いていたのが去年で、その元となる発表をゼミでしたのが2020年の夏前だ。 つまり僕は3年に渡って、同じ作家の同じ作品について考えていたことになる。ずいぶん長い年月だ。勤勉な研究者だったら博論相当の論考を書き上げることもできると考えると、自分の緩慢すぎる歩みには少々辟易してしまう。もちろん研究ばかりしていたわけではない。むしろ脚本を書いたり、夜な夜なおしゃべりをしたり、就活をしたりして、色々と忙しない瞬間があったりもした。それに研究といっても、実際にやっていることは少しばかりの文献を読んで、あとはパソコンと睨めっこをしていたにすぎない。 僕が研究していたのは、アンドレイ・タルコフスキーというソ連の映画監督だ。ちょっとでも映画に詳しい人なら名前くらい聞いたことがあるだろう。いわゆる「アート系」の作家で、長回しが特徴。筋を追おうとすると、煙に巻かれてしまう類の映画を撮っていて、眠くなる映画監督ランキングでは殿堂入りを果たしている。 別に一本書き終えたからといってタルコフスキーとさよならをするわけでもないけれど、せっかくの機会だから出会いとか僕がどういう角度からタルコフスキーを論じているのかを書いてみることにする。 タルコフスキーに出会うまで 僕は大学の二回生の夏に、ロシア文学を専門にしようと決めた。直接的な理由としては、一ヶ月間モスクワに留学したことがある。それについてはいつか詳しく書くけれど、それはそれはとても楽しい日々で、自分の専門性がよくわからなくなっていた僕が決定を下すには十分な理由を提供してくれた。 で、研究室を決めたんだけど、その年の秋くらいに、僕はふと映画を専門にしようと思い立った。なんか直接的な理由があったかもしれないけど、あまり覚えていない。まあそれなりに映画は見ていて、それなりに好きだとは思っていたけれど、結構唐突で突拍子もない決断だった。 ただ一回生の頃、なんとなく履修してみたささやかな日本文学のゼミ(久生十蘭を読んで討論する授業だった)で、ちょっとした挫折感を覚えたことが尾を引いていたのだと思う。すごい同級生がいた。彼女の作品に対する批評的な発言はカミソリみたいに切れ味鋭かったし、物語の要点を掴む能力は今まで会った人の中でもずば抜けていた。帰国子女(だったと思う)であることも、英語が不得手な僕に劣等感をもたらした。 まあそれも浮かれた僕に挫折感を与えるには十分な印象を与えたのだけど、僕が「負けた」と思った点はそれとは別にある。何よりも読んできた量が違ったのだ。こなしてきた物量で、全く敵わないと思った。こんなところにいては埋もれてしまう。それなりに文学屋だと自負していたのに、自分が全然小説なんて読んでいないことが露わになった気がして、結構落ち込んだ。 【追記】卒業間近になって、大学の友人にその話をしてみると、どうやら彼女は僕以外にも強い衝撃を与えたらしい。でも彼女が特別であることなどその当時の僕は知る由もない。落ちこぼれだと感じた過去は、別に後から答え合わせをしたところで変わることはない。 そんなこともあって、僕は1、2年の間、文学とは異なる専門領域を作ろうとあれこれ頭を悩ませていたのだ。ロシアに行って、ああロシア文学だとなった時はそのことを忘れていた。よくよく考えたら、ドストエフスキーとチェーホフが好きといったくらいだ。それ以外ロシア文学は読んだことがないどころか、作品名も作者の名前も知らないくらいのレベルだった。 それで僕は研究室に配属する前に、戦略を立てることになる。王道から少し離れてやろう、と。映画を専門にすれば、少しくらいは一目置かれるのではないか、と。もちろんそれは浅はかな考えで、実際研究室に入ってみると、絵画や音楽の研究をしている人もいたし、映画なんてどう考えても王道も王道だ。しかし当時の僕は、映画を選んだというだけでちょっとした変わり者ポジションに自分が立てると思っていた。 そうして僕は図書館のメディア・ライブラリーでロシア(ソ連)の映画を見ることになる。そうなると最初に手に取るのは、やはりタルコフスキーなのだ。「ロシア 映画」と調べたら最初に出てくるのはタルコフスキーだし(多分)、僕がその当時唯一知っていたロシア人映画監督もタルコフスキーだった。ちなみに今タルコフスキーの作品を見ても、途中で3回くらいは眠り込んでしまう。 最初に見たのは『鏡』という映画だった。何が何だかわからなかった。見たことがある人ならわかると思うけど、誰が誰だか本当によくわからない。というのもこの映画、別々の役を同じ俳優が演じていたり、主人公の姿が画面上に現れなかったりする。気になる人は、YouTubeでモスフィルムが上げているので一度見てほしい。 何から何まで、これまで見た映画とは違うような感触があった。こんなに眠くなる映画は初めてだったし(それ以前の一位はキューブリックの『時計仕掛けのオレンジ』)、こんなに長回しのショットが続く映画も見たことがなかった。あと、映画の随所に見られるホラーっぽい要素にゾクゾクしたことも覚えている。面白いとは思わなかったけれど、すごいものを見たと思った。 もちろん他にもロシア映画は見た。といっても、エイゼンシュテインとヴェルトフとバルネットとソクーロフくらいだったと思う。ソクーロフは本当に苦手で(『エルミタージュ幻想』は除く)、確か『マザー、サン』か『孤独な声』を見たときは、映画が終わるまでに7回くらい寝た。90分に満たない映画だったのに、昼食後に見始めて、見終わる頃には暗くなっていたことを覚えている。眠くなる映画ランキング一位が、こんなにすぐ更新されるなんて思いもよらなかったのはまた別の話。 で、僕はあまり大した思い入れもなしに、タルコフスキーを専門にすると決めた。勝ち筋は何も見えていない。それで僕は最初のゼミで、「崩壊している」と評される発表をすることになる。多分に蓮實重彦の影響を受けた、晦渋な文体で、自分でもよくわからないモチーフを書いたりしたと記憶している。 ↑これ。恥ずかしすぎて、読み返すことすらできない。 研究について まあ当たり前のごとくゼミでボコボコにされた僕は、3回生の冬くらいからようやく本腰を入れてタルコフスキーに取り組むことになる。 日本におけるタルコフスキーの言説は、ほとんどモチーフを分析するものだった。まあ要するに、よくわからない作品に高尚な意味をあてがうような研究だ。作品を超えて繰り返される水とか火とかのモチーフに、物語論的な意味とは異なる連関を見出していく。 それはそれで悪くない。ただ2020年代にもなって、今更蓮實的な主題論的な分析をするのは少し退屈な気がしていた。タルコフスキー研究っぽくない角度から、このよくわからない作家を論じてみたかった。そこで僕は、タルコフスキーの作品に、いわゆる古典的ハリウッド映画の影を見出してみようと思った。「詩的」みたいな言葉を禁じて、徹底的に形式を論じていくこと。 でも形式とはなんだろう。その時僕が念頭に置いていたのは間違いなくロシア・フォルマリズム的・記号論的な意味での形式なるもので、大雑把な理解でいうとそれは作品を単位に分割し、それら分節化された単位が、作品全体の中でどのように機能しているのかを考えていくということになる。「考えるな。感じろ」的な言葉が飛び交うタルコフスキーの周辺において、そうした分析を施すことは多分に刺激的であると思ったのだ。 そうして僕は、タルコフスキーの作品(主に『鏡』)を、ショットを最小単位にして考えてみようと決めた。分割を恣意的なものにしないためには、どうしても文章における単語のレベルにまで目を細める必要があったのだ。 もう一つ、分析のとっかかりになる概念があった。カメラ目線。僕がタルコフスキーにゾクゾクしたのは、画面の奥から僕を見つめる女の顔があったからだ。何度目かの再鑑賞の際に、僕はそのことに気がついた。それで僕は俳優の「視線」に着目して分析をしてみようと思い立った。 映画における「視線」とは、画面内の人物がどこかに目を向けるショットと、それに後続するショットとのモンタージュ間で生起する。具体的にいえば、目の前の人間が窓の外を見やった後に、その窓の外が映像として連鎖するような状況だ。つまりショットが交代することで、私たちは登場人物と視界を共有する。 僕はそこに、客体であった俳優が見る主体へと変貌する瞬間を見てとった。文法的にいうと、、、あれなんだっけ。ちょっと忘れてしまった。まあともかくそれは三人称で書かれた文章の中に、ふとその人物の感情が直接記述されるような現象だ。例えば、 太郎は悔しそうに、手に持っていたスマホを放り投げた。馬鹿野郎。俺がこんな労働をしてるのは、一体誰のせいなんだ。 みたいなやつ。馬鹿野郎以下は、本来なら鉤括弧がついていてもおかしくない文章だ。そのことに気がついた僕は、「視線」に着目すれば『鏡』のナラティブを、形式的に論じることができるのでは、と考えた。 まあそこからは結構複雑な話になるので、また参考までに後日書いてみる。 ともかく、僕は一枚のカードを手にしたような気がした。この着眼点があれば、どこまででもタルコフスキーを論じていける。というか、数多の映画作品をこの視点から読み解くことも可能なのではないか……紆余曲折は経たけれども、この思いつきを2年以上も手放さず議論の中心に据えることができたのは、僕の選択の中でもかなり適切な選択だったと思う。 まあ結論なんてないのだけれど、こんな感じで僕は卒論を書いた。とりあえずのゴールが今度出るらしいので、まあ興味ある人は読んでください。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

コメント

タイトルとURLをコピーしました