うたた寝の地点

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カウリスマキの『パラダイスの夕暮れ』を見る。初見のつもりで見始めたら、あらゆるショットがどれも既知のものであるように思え、カウリスマキの映画はどれもこれも似ている、などと雑な結論を下しそうになったが、よくよく記憶を掘り返してみると一年ほど前に途中で寝落ちしてしまったことを思い出す。とはいえどこで眠ってしまったのかは覚えておらず、画面が全くの新しい画面として現れる瞬間を待っていると、じわじわと襲ってくる眠気に抗うこともできずうたた寝をしてしまう。

目を覚まし、シャワーを浴びて再び映画と対面すると、そこに広がっているのは完全に新しい映画であった。一年越しに、同じ映画の同じ地点で眠ってしまったらしい。こういうことはしばしば起きる。

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その言い回しを使いたくがないために異なる語彙を探し、ぽっかりと空いたその間隙に種々の言葉を当てはめてはみるものの結局適当な言葉が見つかることもなく、不快感だけを覚えたまま疲れ切ってしまうことがある。 例えば「変数」という言い回し。それはおそらくただ「未確定であること」を名指すために文脈の中に差し込まれているのであろうが、そこに含意される浅はかな数学ないし数字への信奉は、その意味が極めて単純な語彙で説明されるものであるがゆえに、ひどく陳腐なはりぼての様相を呈しているように思われる。 あるいは「理論的には」なる形容。そこに体系だった「理論」などいささかも垣間見えることはなく、ただ2+2程度の計算によって一意に定まる解答のことを指してその言葉が使われているのを目にすると、高々数十年前に「理論以後」との言葉を掲げて人口に膾炙した「実証的」なるものの成れの果てが今まさに眼前にあることに気が付き屈折した高揚を覚えることになる。 しかしそうした語彙をどれほど憎んでいようと、結局僕が放置した言葉の空白は適当な言葉で埋められることもなく、「理論的には」とできうる限り小さく呟いてお茶を濁すことしかできない。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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