一人でコンビニに行くのは寂しい

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23時すぎ。昨日から読み始めたアンドレイ・クルコフの『ペンギンの憂鬱』を読んでいると、いつも常備している2ℓの水がなくなってしまう。

口が寂しいと作業をしたり本を読んだりしてもあまり集中できない性質なので、まだ眠くないこの夜を引き延ばすためにも是非とも水が欲しい。今日はリモートだったので全く外に出ていないし、ちょっとは散歩をした方が良いような気もする。

ただシャワーも浴びてガッツリ寝巻きの状態。わざわざ外出するのは億劫だし、夜に追加の花粉を浴びるのはあまり好ましくない。

どうしようかとしばらく迷っていると、いつの間にか本には集中できていない。変にスマホを触りだしてしまって、適当な人物のWikipediaを読み流している。このまま大久保利通の人物評価を読んでも仕方がないだろうと思い、ようやく重い腰を上げて部屋を出る。


今日は大学の卒業式だったらしい。僕が京都を去って、ちょうど一年が経つ。幸運にも学年を問わずに友人を持てたおかげか、これからも京都に居座ってくれる人がまだ残っているわけだが、ただその数は減っていく一方だ。

ひとりコンビニへと向かう夜道を歩きながら、誰かの買い物に付き合ってガヤガヤと丸太町通を練り歩く集団のことを思い浮かべたりした。

体調もだいぶ戻ってきた。

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友人と一緒に母校の文化祭に行った。卒業して以来高校には一度も足を踏み入れなかったので、おおよそ8年ぶりである。 国高祭。結構、というよりかなり有名な文化祭で、僕もそれに憧れて高校を選んだ節がある。有名なのは三年生の劇で、一夏をかけて準備をする。一二年の頃は部活が忙しくほとんど手伝いもしなかったくせに、部活を引退した最後の夏はこの劇にかなりの時間を捧げた。劇に出たのは良い思い出だ。こういうことをしたかった。夏が終わる時にそう思った記憶がある。これ以上満ち足りた時間を過ごすことはもうこれからないような気がしてとても寂しかった。まあ大学時代も存分に楽しんだので甲乙つけることはできない。とても幸運な高校・大学生活だったと思う。 もう知っている人なんて誰もいないと思っていたのに、隣の隣のクラスの担任の先生がいて驚いた。あまり変わっていなくて、実は卒業してから一年くらいしか経っていないのではないかと錯覚する。 演劇を見ることができなかったのは残念だった。昔から劇はかなりの激戦で、倍率が5倍とかになることもあったような気がするから、仕方がないことだと思う。けれどもその抽選の仕方がだいぶ変わっていて、昔は朝早くから親たちが正門の前に列を作っていたのに、今では文化祭の前に抽選が行われているらしい。どちらにせよ、僕はとうに部外者であることを思って寂しくなった。 コロナの影響もあって、国高祭が外部に開かれたのは四年ぶりらしい。すごい時間だ。当たり前のように毎年文化祭が行われた僕の時代は、やはり幸福な時代だったのだろう。 一二年生の展示を回ったが、どれも面白かった。今は乗り物系のアトラクションが流行っているらしい。外装もすごかった。一年生の女の子に「この外装よくないですか」と言われた。すごいと思うと答えたが、なんだか言葉にすると淡白で僕の感動はあまり届かなかった気がする。本当にすごいと思う。 それにしてもすごい熱気だった。この熱意の傾け方は、間違いなく正しい。僕も頑張らなければと思った。 帰りにレイトショーで『君たちはどう生きるか』を見た。観客置いてけぼり、みたいな感想を耳にしていたけれど、結構素朴な話だと思った。設定も別に荒唐無稽ではないし、むしろ複数世界の扱い方は極めて現在風だと感じた。 とはいえ寂しい話だった。世界の創造者が、自ら生み出したその世界の醜さを受け入れられない物語。と、とりあえずは書いてみるが、そんなことも大して意味がないのかもしれない。フィクションのリアリティは、そうでしか描けないという形で具現するのであって、そこに意味なり解釈なりを見出すことなんかどうでもいいという気分になっている。一番ひどいのは伏線回収。 悪口を言ってしまった。そういうのは金輪際やめにしたい。物語から教訓めいた何かを引き出して、それを根拠に自分を肯定するようなことはやはりよくない。しかもそれは僕が否定したい、物語の意味解釈なのだから。ただ受け止めて鮮明に記憶することだけ。それだけでいいと思う。 僕より若い人と、僕より年長の人の凄まじい熱意に腰を抜かした一日だった。いい一日。ちゃんと寝て、僕もそうした熱意の只中で格闘していきたい。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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