年末を総決算

article

あけましておめでとうございます。

結局年越し蕎麦を食べることもなく、レトルトのカレーを温めて食べたのが2023年最後の食事。大晦日とはいえ生活はほとんど変わらず、いつも通りPCをカタカタやったり映画を見たり本を読んだりしていたらいつの間にか年を跨いでしまっていた。まあ地道にやらなダメですからね。


二日前。

お墓参りに青山に出る。西東京で暮らしていた頃はお墓参りに来るたびに「東京」を肌で感じていたのだけど、なんやかんやで東京の東で暮らし始め、仕事でそこそこの「東京」と日々触れ合ってきたせいもあってか、かつてのような高揚感はあまりない。

お墓に行くとき、いつも立ち寄る花屋がある。うちの家はずっと前からそのお店で花を買っていて、そこで出してもらう温かい緑茶を飲みながらちょっと休憩するのが習慣みたいになっていた。小さい頃は花屋と認識すらしておらず、無料休憩所のようなものだと思っていたのだけれど、よくよく話を聞くと祖父が花代に加えて心付けのようなものを渡していたらしい。金銭と商品だけではない交換がそこにはあったのだと思うと、こういう慣習は結構興味深い。とはいえその祖父も亡くなり、次第にその関係性は薄れていっているらしい。「お釣りを受け取っちゃったよ」と父が言っていた。

お墓には鳥のフンがたくさんついていたから、タワシでゴシゴシと擦る。あたりを見渡すと、手入れのされているお墓とそうでないお墓がはっきりとわかるから、まあ他人の目を気にするでもないが、それなりに綺麗にしてやろうと手に力を込める。

結構有名な人(というかいわゆる偉人?)の墓が近くにあって、墓石に刻まれたその名前を見ると変な気分になる。総理大臣のお墓はやはりでかい。ある日、勝手にご近所さんだと思っていた吉田茂の墓がそっくりそのままなくなっていて、この時代に墓荒らしなんているのかしら、と適当な想像をして楽しくなったことを思い出す。まあただの引っ越しだったらしい。お墓の引っ越しなんてものがあるのをその時初めて知った。

墓参りの後によく家族で立ち寄る中華料理屋の「富徳」というお店があったのだけれど、一昨年に閉店してしまった。中学生くらいの頃、昼過ぎにあまりお客のいないその店に母親と妹と一緒に行って、セロリと鶏肉の炒めを食べた。なんでそのメニューにしたのかはさっぱり思い出せないのだけれど(その年頃の男子が期待して頼んだとは到底思えない!)、それが感動的なほど美味しくて、もうその時から十年以上経っていると思うのだけれど、今でも年に一度くらいそのエピソードについて喋ってしまう。なんとなくこの前家で同じようなものを試してみたが、別にプルースト的な記憶が喚起されることはない。さもありなん。


お墓参りの後、ルノワールでパソコンをカタカタとやって時間を潰し、高校の同窓会に行く。こういう場はひどく緊張してしまうから、最初はビールを持つ手が本当にガタガタと震えていた。高校時代というものはきっちり三年間という厚みを持っていて、その中で彼ら彼女らとの関係性は色々に変化していったはずなのに、卒業してからこうも時間が経つとそれらが全て一枚の平面に乗せられているような感じがして面白かった。

article
ランダム記事
つい数日前に夢を思い出せなくてウンタラカンタラと日記に書いたが、今日見た夢はかなり鮮明に覚えている。 僕は京都にやってきた旅行者。夜の木屋町で自転車を漕ぎながら夕飯を食べる店を探している。一通り飲食店を回ってみて何軒か候補をリストアップするものの、結局決めきれずに検索に頼る。するとその中の一軒であった安価なラーメン屋が飛び抜けて高い評価を受けていることを知り、そこを訪れることに決める。 そこは中華料理屋風に漢字二文字で名付けられたお店だ。路地裏で営業しているのだが、入り口となる扉はなく、店全体がテラス席のように外に開かれている。妖しげな赤や青の照明が至る所に置かれていて、異国情緒漂う雰囲気は『千と千尋の神隠し』で千尋の両親が豚に変わったあの屋台に似ている。 中にいる客は少なく、皆一人で丼を睨みつけて黙って箸を動かしている。どうやらわんこそばのようなスタイルらしく、ふと目についた男の席には何十個もの空いた丼が並んでいる。しかもその皿はどれも大きい。普通のラーメン一人前くらいの量を、男は全て平らげたらしい。 店員の男(容貌はどうも思い出せない)に案内されて、奥の方の席に案内される。メニューが見当たらずあたふたしていると、再び店員がやってきて「うちはメニューが一つなんですよ」と言う。「うちはね、乾麺のお店なんです。だからこんなに安く提供できる」 彼はそう言って壁面に貼られた紙を指さすと、そこにはコピー用紙に青のマジックインキ「30分500円」との文字が書かれている。 「麺は適宜補充しますから安心してください」男はそう言うと、ぐつぐつと煮えた大きな鍋が見える厨房へと姿を消す。 しばらく待っていると、つけ汁と麺が運ばれてきた。簀の上に乱雑に並んだやけに太いその麺は奇妙なほど角ばっている。普通の麺が円柱だとするならば、この麺は角柱と言ってよい。それに長さもまばらだ。小指ほどもない麺がある一方、始点も終点もわからないほど長い麺も混じっている。高野豆腐みたいに皺だらけであることも気になる。 一見したところつけ汁はオーソドックスなもので、適度な酸味と獣感が感じられるその匂いは食欲をそそる。まあとにかくお腹も減っているので、とにかく麺を口に運ぶことにする。 美味しくない。 嫌悪すべきまずさ、というほどでもないが、やはりあまり美味しくない。カップヌードルの麺の悪いところを増大させたような味で、一度乾燥させたことで生じる雑味が強調されている。太さの割にやけにスカスカな印象をもたらすその麺は、食べても食べてもお腹に溜まっていかないような感覚がある。 とはいえお腹が減っているので、勢いのまま一皿目を食べ終える。最後の一口を咀嚼し終えた瞬間、音も立てずに男がやってきて、黙って新しい麺の入った丼を置いて去っていく。 これが30分も続くのか。僕は憂鬱な気持ちになってその麺に目を向ける。麺量は一皿目よりも増えている。 ここで目が覚めた。今日は麺類を口にせず、白米を食べることにしよう。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

コメント

タイトルとURLをコピーしました