満腹の十時半

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面倒、というよりも自分の時間を空費するような仕事が発生して心が荒み、職場近くの公園で変なうめき声を発してしまう。むしゃくしゃしたまま電車に乗る。乱れた心で見る世界はとげとげしい。

高校生の頃、苛々を大声に預けて自転車を漕いでいた記憶が蘇る。誰もいないと思っていた公園横の狭い道で、あたりを伺いながら声を張り上げたら、角から自転車に乗ったおばさんが現れ、恥ずかしい思いをした。こういう中途半端さは、いつになってもあまり変わらない。

このまま一日を終えるのは癪だから、あえてちゃんとした生活をしようと気持ちを切り替える。自炊。賞味期限を迎えた豚肉を炒め、前日に切っておいた白菜で蒸し煮にする。白だしと醤油を加え、味を見る。美味しい。ごま油でもあれば良いのだが、今から買いに行くのは億劫だし、別に無いからといって不満では無いのでそのまま食べる。

と、冷蔵庫に二日前作った春菊と豚肉の炒め物があることを思い出す。おかずは作った順に消費していかないといけない。油断すると途方もない時間が経過しており、悲しい粘り気を放つことになる。

というわけで、出来立ての料理をパックに入れ、残り物をフライパンで温め直す。電子レンジがまだ家にないので、いちいち面倒(電子レンジはインフラだよ、と誰かに言われた)。炊いていたご飯にそのおかずを乗せて、夕ご飯が完成。夜十時くらい。

しかしこの丼、あまりにも量が多い。美味しいことは美味しいのだが、単調な味付けのせいもあり、半分くらい食べると飽きがきてしまう。一味をドバドバかけたり、オリーブオイルを垂らしたりして味変をする。

あまりにも満腹の十時半。満たされすぎた僕の身体は、もはや他の動作を必要としていない。本を読んだり、文章を書いたりしたいのだが、意識が散漫になるので、諦めて風呂に入り眠る。

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ツナマヨのことをずっと忘れていた。 小学三年から五年までの三年間は甲府で過ごした。父親の転勤を理由に引っ越したのだが、新しく買ったばかりの家が東京にあったから、子供心に長い旅行のような感覚があった。 僕が住んでいたアパートには同じような転勤族の一家が多く、つまりは同世代の子供たちが数多くそこに暮らしていたので、学校とは別に遊ぶ友達がたくさんいた。アパートの前は小さな公園のようになっていて、そこに行けば誰を誘うでもなく、一緒に砂遊びをしたり、蟻と戯れたり、ドッジボールをしたりして日が暮れるまでの時間を退屈することなく送ることができた。 きっかけは忘れたが、毎日のように遊んでいた仲間たちと一緒に、県のドッジボール大会に出ることになった。僕たちの中には野生的に運動ができるTくんもいたし(雨の中壁伝いにアパートの屋上に登っていた!)、小柄ながらも父親譲りの華麗な運動神経を持ったSくんもいたから、結構いいとこまでいけるんじゃないかと思っていた。僕だって並以上には強いボールを投げることができる。それに僕たちは毎日のようにドッジボールをしていたのだ。 大会に出ることが決まってからは、学校の体育館を借りてちょくちょく本格的な練習もした。その過程で僕は小指を骨折し(いつも使っていたソフトバレーボールとは異なるドッジボール用の硬いボールを使っていたのだ)、それでも大会に出たいと整形外科で号泣、ギブスに包帯をぐるぐる巻いて最強の助っ人よろしく出場が許されたのだった。 そうして迎えた大会の日。対戦相手はツナマヨネーズのCチーム。県下に名を轟かせていた強豪とはいえ、相手は三軍である。 しかし練習の段階でもうレベルが違うのだ。僕たちは個の力でもって相手を倒そうとする。早い球が投げられる人にボールを集め、全力投球。当たるか外れるか、それとも取られるかは個人の球の質次第といったところ。 しかしツナマヨは違う。テンポ良く素早いパスを僕たちの間隙に投げ込み続ける。内外野問わず、ボールの離れが早い。そうして反転する際に体勢を崩した選手の手足を的確に狙い、確実に仕留める。 完敗。 大会後、僕たちはツナマヨをほとんど悪の組織であるかのように捉えるようになった。僕たちは素人で、ツナマヨはプロ。ドッジボールを楽しむ僕たちと、厳しく訓練された坊主頭のゴリゴリ集団(多分坊主の人などいなかったが)。 そんなふうにツナマヨを思っていたことも、甲府で過ごした楽しい三年間のことも、ずっと忘れていた。 彼ら彼女らがツナマヨと名乗っていなかったら、この記憶は一生掘り返されることなく眠っていただろうことを思うと、その名付け親には感謝したい。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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