満腹の十時半

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面倒、というよりも自分の時間を空費するような仕事が発生して心が荒み、職場近くの公園で変なうめき声を発してしまう。むしゃくしゃしたまま電車に乗る。乱れた心で見る世界はとげとげしい。

高校生の頃、苛々を大声に預けて自転車を漕いでいた記憶が蘇る。誰もいないと思っていた公園横の狭い道で、あたりを伺いながら声を張り上げたら、角から自転車に乗ったおばさんが現れ、恥ずかしい思いをした。こういう中途半端さは、いつになってもあまり変わらない。

このまま一日を終えるのは癪だから、あえてちゃんとした生活をしようと気持ちを切り替える。自炊。賞味期限を迎えた豚肉を炒め、前日に切っておいた白菜で蒸し煮にする。白だしと醤油を加え、味を見る。美味しい。ごま油でもあれば良いのだが、今から買いに行くのは億劫だし、別に無いからといって不満では無いのでそのまま食べる。

と、冷蔵庫に二日前作った春菊と豚肉の炒め物があることを思い出す。おかずは作った順に消費していかないといけない。油断すると途方もない時間が経過しており、悲しい粘り気を放つことになる。

というわけで、出来立ての料理をパックに入れ、残り物をフライパンで温め直す。電子レンジがまだ家にないので、いちいち面倒(電子レンジはインフラだよ、と誰かに言われた)。炊いていたご飯にそのおかずを乗せて、夕ご飯が完成。夜十時くらい。

しかしこの丼、あまりにも量が多い。美味しいことは美味しいのだが、単調な味付けのせいもあり、半分くらい食べると飽きがきてしまう。一味をドバドバかけたり、オリーブオイルを垂らしたりして味変をする。

あまりにも満腹の十時半。満たされすぎた僕の身体は、もはや他の動作を必要としていない。本を読んだり、文章を書いたりしたいのだが、意識が散漫になるので、諦めて風呂に入り眠る。

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昨晩まで実家にいて、夜の電車に乗ってアパートに帰る。色々と食べ物とかバスタオルとかを頂戴して、しばらくお金が浮くなと思う。 家族の中では、僕が一番コーヒーを飲む。母親はそれほどコーヒーが好きというわけではないのだが、実家近くにできた焙煎所が気に入っているらしく、たびたび結構な量の豆を買っては飲みきれないからと僕に譲ってくれる。 しかし今回もらったコーヒーは特別なものだ。 ゲイシャ。 芸者とは関係なく名付けられたというこの豆は、コーヒーをガブガブ飲むくせにその種類や味についてあまり詳しくない僕でも知っている。というのもこのゲイシャなるコーヒー、端的に言ってバカ高いのである。喫茶店のメニューの端っこで、他の豆とは格が違うとばかりにキラキラとした枠に囲まれ、なんだかリッチな太字フォントで書かれたその一杯は、1500円などというおよそノンアルコール飲料とは思えない値段で売りに出されている。 母親はゲイシャをついうっかり買ってしまったのだという。焙煎所で試飲した三種のコーヒーの中で一番美味しいと思ったものを、ほとんどその名前も見ずに選択。いっぱい買うとお得だからということで300gを選択した母親は、レジで7000円が提示された瞬間自分の頭がおかしくなった気がしたという。店内は混雑していたし、豆はすでに挽かれてしまっていたから、もう後戻りはできずそのままコーヒーを受け取って店を出たというわけだ。 そのゲイシャを、家族でそろって飲んでみよう。というわけで三が日の中日に、いつもの三倍くらいの時間をかけて丁寧にコーヒーを淹れる。普段は食器棚の奥にしまいこまれたソーサーとカップを取り出し、沸いたお湯を注いで温める。ちょっとぬるくなったそのお湯を使って、ポットからか細い線でお湯を注ぐ。せっかくのゲイシャを「なんか薄いね」などと形容することは断じて許されないので、こまめにその味を確認して、ベストな濃さを追求していく。 ストイックな作業だ。しかし丁寧に入れたそのコーヒーも、僕たちの口内コンディションが最悪では意味がない。そこで数時間前に歯を磨いたはずなのに、再度歯を磨いて水をがぶがぶと飲み、舌を清潔にした上でようやく湯気立ち上るゲイシャを口に注ぎ入れる。 美味しい。浅煎りのフレッシュな酸味が口内を満たし、それが飲み込まれた瞬間豆の柔らかな甘みが立ち上る。 高いものを飲むと、なんだか語彙が膨らんだような錯覚を抱くが、おそらくそれはこの味を的確に表現しなければならないという強迫観念のせいなのだろう。しかしともかく、これは美味しい。家で淹れても一杯4〜500円くらいはするだろうこのコーヒーに、その値打ちがあるかどうかはわからないが、まあ美味しい。こんなものを飲むのはこれが最後かもしれないから、その味と香りを記憶すべく、家族全員であれこれ言葉を尽くしてみたりもする。 そのゲイシャを、三分の一ばかりもらって帰ってきた。かなりありがたい。 正月ももう終わり。良い正月だったと思う。しかしその帰りに一人夜道を歩いていると、社会で成功しているとは到底思えない大の大人が、食べ物をもらったり家族でトランプをしたりするのは本当に正しいのだろうかと考えてしまう。そんな風にひねくれてしまうのも、自分が知らず知らずのうちに競争社会の只中に放り込まれてしまっているからだと思うと、なんともやるせない気分になる。 その競争を勝ち上がった先には、ゲイシャ(あるいは芸者)が待っているのかしら。
山口宗忠|Yamaguchi Munetada

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